終戦記念日の今日

VIVA! レバノンでも停戦状態がつづいているようです。

永遠の帰還
リタニ川を越えるものへのイスラエル軍の警告にも関わらず、午前8時から、人々と荷物を満載した数千台の車が廃墟となった村々へ向けて出発した。僕にとって、レバノン人の頑固さは、いつまでも喜ばしき謎だ。

しかし、一度刻みつけられた恐怖の記憶は、容易に去ることのないもののようでもあります。

8月14日から15日にかけての夜
午前五時
静けさ
静けさ
静けさ
そして、口の中の苦い味わい

bitter taste in the mouth
それは、もう本当に爆弾が降らないのか、固唾をのんでいるあいだに口にした何杯ものコーヒーやタバコの後味かもしれないけど、未来への不安と、喪われてしまったものへの後悔でもあるように感じます。
今日は全部で13枚のイラストがアップされています。ぜひ、直接KERBLOGを覗いていってください。

彼らの「今」と僕らの「今」

日記の更新がすっかりご無沙汰になってしまいましたが、久しぶりに、どうしても書かなければと思うことがありました。

まずはこの画像をみてください。焼け焦げた少年の死体がバラバラにちらばっている迷路、遺体の身の丈にあった棺を探すゲーム、空爆前と後の街並を並べたまちがい探し。なんともブラックで残酷なジョークです。不謹慎だとさえいえるかもしれません。だけど、これが現在のベイルートに暮らしているレバノン人によって描かれたものだと知れば、絶望的な状況のなかで希望を手放さないための悲痛で、しかし強靭なユーモアだとわかるはずです。
このイラストは、レバノン人アーティストmazen kerbajさんのブログKERBLOGに掲載されているもののひとつです。僕はこのサイトの存在を、最近一番気を入れて読んでいるイルコモンズさんのブログで知りました(このブログはすごくおもしろいのでおすすめです)。mazenさんは、イスラエル空爆が始まった7月12日以降今まで、170枚以上に及ぶイラストをアップして、リアルタイムのレバノンの様子を綴っています。

次のイラストは空爆が始まった当日の夜にアップされたものです。「午前4:51 爆発が近づいて、一人また一人とテラスへでて、どこから爆音が聞こえるのだろうと耳をすます」

「7月15日から16日の夜 テレビ「ニュース」、ウイスキーオン・ザ・ロック、ポーカー、外では、ロックンロール。つまりそういうこと」

7月16日「〈message in a bottle〉
レバノンと海外の親愛なる友人と家族へ
毎日、何トンもの応援のEメールをありがとう。僕らは本当に君たちの注目を必要としているからね。
できるだけ返事は書くつもり。だけど似たような質問も多いんだ。中でももっとも多い質問はこれかな。
「私たちに何ができるの?」
答えは「話すこと」
ここで起きているひどいできごとを、家族に、友達に、見知らぬ人に話してくれ。バーで、レストランで、道端で話してくれ。
みんなに話しかけてほしいんだ。ビルにだって話しかけてほしいくらいだよ。ここにいるとね、世界の誰も気にかけてやしないって思ってしまうんだ。黒焦げになった子供の死体のことなんかね。」


「うちのママは第二次世界大戦のときは10歳だった。
1975年の内戦のときは45歳。
今、75歳。
〈ねえ、私、次の戦争には間に合うかしら〉」

mazenさんは、8月5日にこう書いています。
「「ウェブティファーダよ、なすがままに進め」
親愛なるみんなへ
 この「ウェブティファーダ」というコンセプトには何か特別なメッセージがこめられてるように思うかもしれない(でも言っておくけど、この言葉は、僕をしばるものではないからね)。みんなもよく知ってるはずだと思うけど、僕の頭はすっかり混乱してしまって、ここ数日に起きたことを、きちんと把握できてない。いったい何をすればいいのかも分からない。日ごろ、何に対しても懐疑的なことで知られてる僕だけど、でも、このネットにつながってる世界中の人たちと何か一緒にやれるんじゃないかという気がしてる。それが何かに異議を唱えるものかどうかは分からない。普段の僕は署名をしたりしないし、そんなもの信じてもいない。それより何かもっとましなことがあるはずだけど、それがなにかは分からない。それはともかく、この「ウェブティファーダ」を実現させるのは、君たちだ。
僕はただひたすらアップを続け、この問題について何かいいアイデアがみつかるように、コメントのための場を提供してゆくつもりだ。僕はこのサイトが人に何かインスピレーションを与えるものとして使われることを望んでいる。なにしろ、ここには大勢の人たちがつながってるからね。僕はここにきてようやく多くの人たちが、レバノンというのはラクダにまたがった人たちが朝から晩まで飲み水を求めてさまよってる砂漠の国ではないのだ、ということを理解し始めてくれたような気がしている。これから僕は自分がやるべきことをやり続けるので、どうか君たちも何かはじめてみてほしい。くそったれ、へこたれるもんかと、自分にできるところまで、僕らは抵抗するつもりだ。」(翻訳:イルコモンズさん)

Guanzhou Lettersも、このウェブティファーダへの参加を宣言します。といっても、こうやってKERBLOGを紹介したり、自分でも見に行ったりするだけですけど。このブログを読んでくださっているみなさんも、できたらKERBLOGを自分のはてなアンテナに登録したり、人に教えたりしてください。僕はここをポータルサイトにしました。もうすぐ国連の停戦決議が受け入れられると言うけれど、それで戦争が終わるのかどうかはわかりません。ベイルートの上空を戦闘機が飛び、KERBLOGに矢継ぎ早に現況がアップされる限りウェブティファーダはつづきます。
僕がKERBLOGを見ながら考えていたのは、僕たちの「今ここ」とmazenさんの「今ここ」はどうつながっているのだろうということでした。イラク戦争の頃から、ネットを通して色々な映像や音声や言葉が、皮膚一枚の身近さでもって、やってくるようになりました。僕がPCに向かっているこの瞬間に、爆弾が落ち、人が死んでいるのかもしれず、mazenさんもきっとブログを書いている。それは遠近法がむちゃくちゃになるようなちょっと不思議な感覚です。何が近くて何が遠いのかよくわからない。苦しいような辛いような、それでいてどこかが麻痺しているような。
だからといって、僕は「死んでいくベイルートの子供たちのことを考えろ!」というようにヒステリックに叫び立てたいわけではありません。それでも僕たちはご飯を食べたり、仕事に行ったり、昼寝をしたりしなければならないのですから。そしてベイルートに限らずあらゆる場所で、今日もあらゆることが起きています。だけど、僕らの生活にはいつのまにか、もう複数の「今ここ」が入りこんでしまっているので、それらと一緒に生きていかなければならない、そのためのやり方を見つけなければいけないと思うのです。
ウェブティファーダって、たぶんそんなことです。

「民話」という言葉

どんな小さな図書館に行っても、「日本の民話」といった本は必ずある。シリーズであったりする。棚ひとつを占めていたりする。民話は、地方自治体が経営し、地域コミュニティの核になることを求められている図書館には欠かせないものだと考えられているということだ。それらの読者としては小学生から中学生が想定されているのだろう。日本の子供たちは、日本の民話を読む、それもたぶんまずは自分の地域の民話を読み、それから他県の民話を読むというのが、ごく自然で当然のふるまいとして設定されている。

「民話の会」1952年に木下順二、岡倉士朗、山本安英、松本新八郎、林基、吉沢和夫氏らが集まって、木下順二氏の民話劇『夕鶴』の上演を契機に発足。1958年10月から1960年9月の2年間、機関誌『民話』を小社(未来社)から発行していた(通巻24巻)。この機関誌の編集委員には民俗学者宮本常一も名を連ねている。この会と同時期にあった「民族芸術を創る会」の2つに所属した人々の運動によって「民話」という言葉が世の中に定着していった。
 具体的には、1950年頃から歴史学研究会民主主義科学者協会(民科)歴史支部会などを中心にして国民的歴史学運動(歴史学を国民のものにすると同時に、歴史学の体質改善を図ろうとする運動)が盛んになったが、この民科歴史支部会の思想史研究会が主催した木下順二氏らを囲む会がきっかけとなって、戦後の民話運動が起こり広まっていったとされる。戦後の解放と民主化の運動のなかで第一次民話ブームが起こり、さらに日本経済が高度成長を達成した1960年代後半には伝統的なものの再発見ということなどから第二次民話ブームが起こった。(「民話を語り継ぐということ 松谷みよ子氏インタビュー」内の註『未来』2006年8月号)

なるほど、とうなずきまくる記述。つまり、民話というカテゴリーは、国民的歴史学運動や国民文学論争などが生まれる風潮とひとつながりのものだった。戦後社会の中で、民科などの左派運動が果した役割は、現在予想できる以上に大きいと思う。そして、マルクス主義の魅力とは、よくいわれる包括的な世界観といったものだけではなく、名もなく小さなものを掘り出し、ナショナルな領域に組織するその能力になったのかもしれないと感じる。

軽く鬱。理由はいくつか思い当たるがあたっているのやらいないのやら。
現象として言えるのは、どうも街を歩いていると気が滅入るという頃だ。今日は池袋。世の中つまんねー、生きるのだりーという気持ちになってしまう。今までは、日本は閉塞感があっていやだね、などと(自分の問題を社会にすり替えているという意味で)勝手かつ適当に言ってみたりしたのだが、そういう問題でもないだろう。

「カビリアの夜」

テレビをつけると白黒映画をやっており、しばらく眺めているうちにフェリーニの「カビリアの夜」だと気づく。1957年。ローマの娼婦カビリアとその周りのチンピラ群像。野方図だけどけなげでもあるカビリア、騙され、踏みつけにされるカビリア。なんともグッとくる作品なのだけど、ひとつ思いあたったのは、当たり前だがイタリアも敗戦国であり、独自の「戦後復興」があったのだろうな、ということだった。例えばカビリアの家がある場所というのが、原っぱのような場所にちょぼちょぼと近代建築が立ちかけ中という荒涼とした空間で、おそらくはローマでも戦火からの回復と都市化への対応のため、大規模な郊外開発が行われたのではないかと。または、下層階級へのカソリックの浸透具合とか、どこか戦争後の社会変動を感じさせる。ここに出て来るカソリックというのは決してカテドラルに象徴されるような、伝統的大宗教ではなく、もっといかがわしく生き生きとした民間信仰だ。とすると、当然、溝口健二の遺作である56年の「赤線地帯」に連想がいくわけで、京マチ子演ずるアプレ・ゲールと、ジュリエッタ・マシーナカビリアを比較してはどうかなどと考える。ところで、それにしても、「にがい米」や「カビリアの夜」でキャリアを始めながら、リドリー・スコットの「ハンニバル」とかまで撮ってしまう御大ディノ・デ・ラウレンティスというのも映画界の怪物やね。

『世界共和国へ』

柄谷行人『世界共和国へ ──資本=ネーション=国家を超えて』
おもしろい本だと思うのだが、特に刺激された部分だけメモ。
帝国と封建制

  • 柄谷は古代帝国、都市国家封建制といった類型を発展段階としてではなく、帝国=文明からの位置関係としてみる。「ウィットフォーゲルの見方で注目すべきことは、古典古代的・封建的といわれる社会構成体について、水力社会を中核とした場合に、その周辺の外、すなわち、「亜周辺」(submargin)に生じた現象形態として見たことです。亜周辺とは、帝国−文明の直接的な影響下におかれる周辺とちがって、帝国−文明を選択的に受け入れることができるような地域です」。つまり、それらは個別の類型ではなく、構造的な相互関係にある。
  • 帝国=文明を可能にするのは、官僚制、常備軍、文字や通信のネットワークだとされる。これを言語計算の技術と呼んでいいだろう。在と不在、真と偽に基づく論理学、象徴秩序はここに誕生するだろう。それは呪術宗教から普遍宗教の発現、此岸と彼岸の分離にも対応する。今手元にないのでできないが、いつか「ミル・プラトー」の帝国論、文字論とも比較してみたい。
  • 帝国的文明の選択的受容は、日本に限らず、亜周辺一般の特徴である。日本では八世紀に天皇を仰ぐ律令制国家が成立するが、東国の戦士=農民共同体を基盤とする封建体制によって浸食される。「しかしそのような武家の権力は、京都を中心としたアジア的国家=文明の遺産を一掃することはなかった。というより、できなかったというべきでしょう。人格的な忠誠関係にもとづく封建制にあっては、集権的な体制を作ることができないからです。たとえば、日本の歴史に関して、古代の律令国家の法や機構が形骸化したにもかかわらず、一度も公式的には否定されたことがなかったこと、そして、明治維新において、それが中央集権化のために活用されたということが、注目されています」。
  • 天皇を神話的な呪術王としてだけでなく、律令国家を象徴する「天子」としてみること。
  • 帝国の中心では、言語(象徴)運用能力が、直接統治の能力に結びつく。中国で科挙が果していた役割を考えよ。科挙と官僚制は等価であり、地方の秀才を科挙へ向かって整列させること、通過した役人を地方へ派遣することで広大な領土が書物のように整序される。また、故宮などに行くと気づくのは、文字(イメージ)の徹底した統御ではないだろうか。「龍」というイコンひとつがどれほど厳密に管理されたか。
  • しかしいわゆる「詩」はこの科挙(権力)から疎外された秀才の側に成立する。日本の場合はさらに極端で、天皇=和歌的なものが、文明・統合を意味すると同時に政治権力からの疎外態を成している。天皇は詩歌の統治者である。すなわち、天皇は政治権力の喪失の象徴でありつつ、文化の総覧者となる。だから、日本文学が愛着するのは、流された王、力を失った権力者であって、今権力の絶頂にある王ではない(西行源氏物語平家物語)。貴種流離というのはそういうことだろう。
  • 同様に、詩歌は言葉=論理、意味=指令・秩序でありながら、むしろその意味を超える部分が見出され、重要視される。いわゆる余情、もののあわれの美学。
  • このように、天皇は一面で文明=統合の象徴、つまり合理的な言語計算の主体でありつつ、他面ではそうしたものを超越する(と主張する)美的反省の主体になる。よくいわれる明治維新の二重性、ブルジョア革命と神権的古代国家への回帰という二重性は、この天皇の両義性に対応している。当村の「夜明け前」が描いているように、封建制を打倒しようとするとき、天皇という過去の文明=律令制の象徴が持ち出されたのだが、それは宗教的情熱によって支えられた。しかも実際運動に身を投じたのは、地方の国学者のような文学的知識人だったのだ。
  • だが現実には明治国家は近代主義を採用せざるを得ない。明治期の天皇制は絶対王制と立憲君主制の曖昧な結合だが、そこに欠けていたのは、美的な文化王としての性格である。昭和期の国体イデオロギーへの異様な感情備給は、その反動であったと考えられる。むろん日本浪漫派も、美的な存在としてのみ、天皇と言語をとらえている。一方マルクス主義者は、天皇の美的な性格を見落としていたため、足をすくわれた(?)

エステティックとネーション

  • 柄谷は、感情(感覚)のレベルにネーションの力を見出す。彼によると、イギリス(スコットランド)で資本主義が拡大するのと同時に、想像的にそれを補償するものとして、sentiment,sympathyが哲学的な問題となる。またネーション(ステート)の成立期、感性の学としての美学が誕生した。「十八世紀になって、感情によって知的認識や道徳的判断が可能であるのみならず、ある意味で悟性あるいは理性を超えた能力があるということを主張する議論が出てきました。それはエステティック(aesthetics)と呼ばれます。本来それは感性論という意味なのです」。
  • 日本でも国学になると(宣長が生きていたのは十八世紀)、和歌がネーション(唐心を排した本来的な人間の世界)を想起させる装置として尊重される。