2006-01-01から1年間の記事一覧

大江健三郎との一夜

作家の大江健三郎氏とお会いすることができた。会ったといってしまっては大げさで、大江氏の姿に接することができたというべきかもしれない。僕はまぢかの大江氏の姿をうっとりと見つめ、その言葉のひとつひとつにうなずく(二言、三言だけ言葉を交わした)…

インディーズメディアの可能性とレバノン映画

友人で文芸批評家の青木純一さんが、メールマガジンの発行をはじめた。アート系と文学評論のふたつを軸に、週一二回のペースでつづけていくつもりだそうだ。青木さんの危機意識、つまり、これから文芸批評のようなものは、ますますマーケットを失い、流通ル…

帰中しました

9月3日に広州に帰ってきました。いろいろドタバタとイベントがあって、ようやく一息ついたところ。といっても、今週末からまた4日ほど北京にいってきます。

南博の水脈

読売新聞本日の朝刊「時代の証言者 名画上映 高野悦子(4)によると 高野は46年に入学した日本女子大で、アメリカ帰りの気鋭の社会心理学者南博に出会い、指導教授とする。 先生は個別の課題を与え、私のテーマは「マスメディアとしての映画」でした。「…

座談会「日本と中国の狭間から」より

言論の自由に対する批判のことですが、私がいつも思うのは、与えられた自由な言論空間でいうと、日本は中国より広いです。ただ、日本の自由な空間は、どうも壁のようなものに囲まれていて、押しても押してもなかなか広げられない。一方、中国での空間は狭い…

吉澤誠一郎『愛国主義の創成 ナショナリズムから近代中国を見る』

a なかなかおもしろい本だね。筆者の吉澤誠一郎は、俊英といってもいいのだろうけど、決して大向こう受けをねらうことなく、堅実に実証をつみあげて、近代中国のナショナリズムの誕生を幾つかの側面から考察している。 b おどろくべきビジョンを一気に描き出…

終戦記念日の今日

VIVA! レバノンでも停戦状態がつづいているようです。 永遠の帰還 リタニ川を越えるものへのイスラエル軍の警告にも関わらず、午前8時から、人々と荷物を満載した数千台の車が廃墟となった村々へ向けて出発した。僕にとって、レバノン人の頑固さは、いつま…

彼らの「今」と僕らの「今」

日記の更新がすっかりご無沙汰になってしまいましたが、久しぶりに、どうしても書かなければと思うことがありました。 まずはこの画像をみてください。焼け焦げた少年の死体がバラバラにちらばっている迷路、遺体の身の丈にあった棺を探すゲーム、空爆前と後…

「民話」という言葉

どんな小さな図書館に行っても、「日本の民話」といった本は必ずある。シリーズであったりする。棚ひとつを占めていたりする。民話は、地方自治体が経営し、地域コミュニティの核になることを求められている図書館には欠かせないものだと考えられているとい…

イスラエルvsレバノン

棺の数 ↓ http://www.moiz.ca/coffin.htm

軽く鬱。理由はいくつか思い当たるがあたっているのやらいないのやら。 現象として言えるのは、どうも街を歩いていると気が滅入るという頃だ。今日は池袋。世の中つまんねー、生きるのだりーという気持ちになってしまう。今までは、日本は閉塞感があっていや…

「カビリアの夜」

テレビをつけると白黒映画をやっており、しばらく眺めているうちにフェリーニの「カビリアの夜」だと気づく。1957年。ローマの娼婦カビリアとその周りのチンピラ群像。野方図だけどけなげでもあるカビリア、騙され、踏みつけにされるカビリア。なんともグッ…

『世界共和国へ』

柄谷行人『世界共和国へ ──資本=ネーション=国家を超えて』 おもしろい本だと思うのだが、特に刺激された部分だけメモ。 帝国と封建制 柄谷は古代帝国、都市国家、封建制といった類型を発展段階としてではなく、帝国=文明からの位置関係としてみる。「ウ…

あいかわらず

ぼーっとしている。地元の田んぼの真ん中にある蕎麦屋へ。今回の帰国の目的の七割はこの蕎麦屋にあったといっても過言ではない(爆)…が、定休日。やけに苗の緑が目にしみるぜ。また来るからな、と呟いて帰宅。 夜になって明日、ある人物に会いにいくことが…

『不安型ナショナリズムの時代』

高原基彰『不安型ナショナリズムの時代 日韓中のネット世代が憎みあう本当の理由』を読む。 大枠において、著者の議論に同意することができると思う。著者の考えは、きわめて単純なふたつの認識を組み合わせたものだ。 1、現在ネットなどで見られる嫌韓、嫌…

「ゲド戦記」

ところで、本屋でル・グウィンの『ゲド戦記』がソフトカバーになっているのを見て嬉しかった。モニターでは映画の予告編を流していたけど、ハイジみたいな昔の宮崎駿風の絵柄。見たいかどうかは微妙な感じ。でも、スタジオ・ジブリが『ゲド戦記』をとりあげ…

[雑]弛緩状態 床屋、本屋、ミスドと地元をだらだらと回遊して過ごす。論文を書きに帰って来たというのに、日本にいると気が緩んでしまっていけない。ひとつには、情報量が多いということもある。言葉の問題もあって、中国で過ごしているとさまざまな違和感や…

帰国

本日、帰国しました。八月いっぱいいる予定です。 前回、二月にはじめて帰って来たときは、広州と関東の空気の違い、とくに樹々の葉一枚一枚までがくっきりと浮き立ってくるようにみえることに圧倒されたのだけど、今日はそのようなことはなかった。おそらく…

今日の一言(つづかない)

ロマン派というのは、結局文体の問題である。形式において非ロマン的、内容においてロマン的ということはありえない。

「芸術作品の根源」より

ハイデガーを読んでいて、次のようなフレーズにぶつかる。もちろんハイデガー的な形而上学的な深み(いかにもロマン派的な思わせぶりともいえる)はないものの、柳の述べていたことと、ハイデガーの道具論はほとんど重なるように思う。 この道具(農婦の労働…

「日本浪漫派批判序説」より

単に人民文庫と日本浪漫派が転向というひとつ枝から分かれてきたものと見るのではなく、プロレタリア文学運動自体が、大正末期昭和初頭のデカダンスに起源を持つ、という視点をもっとも強く主張しているのは、橋川文三であるように思われる。とりわけ、文芸…

民芸と時代性

一般に柳は大正的な思想家と目されがち(実際そうなのだが)にしても、民芸というコンセプトが明確化され展開されていくのは昭和期である。「下手ものの美」が1926年、「工芸の道」連載が27年から。 伊藤徹『柳宗悦 手としての人間』p178 東大安田講堂の設計…

柳と保田、土門

一九三九年暮れに、柳宗悦は沖縄に旅行する際に、一門のほか、保田與重郎と土門拳を引き連れている。民藝運動と土門のあいだにどういうつながりがあったのかはよくわからない。数年前の土門は人民文庫にも出入りしていた。 案の定というべきか、保田は「現代…

問題点

ある若者が、社会変革の必要性、マルキシズムへの牽引を感じたとしても、なぜ彼は芸術面では通常作家、政治面ではマルキストというふうにふるまうことはできなかったのか。 いわゆる同伴者作家に限らなくても、社会主義への必然的な移行を認めつつ、自分はマ…

中野重治「汽車の罐焚き」

この作品がナルプ解散前に書かれていたら、蔵原惟人もプロレタリア作家の「労働の嫌悪」を嘆かないでもすんだだろう。 しかし、この作品は生産現場をもっともヴィヴィッドに描いた傑作であるとともに、プロレタリア文学理論への批判にもなっている。 この作…

「労働の嫌悪」

蔵原惟人は「芸術的方法についての感想」1931,9,10)で、プロレタリア作家における執拗な「労働の嫌悪」について書いている。 これに関連して指摘しておかなければならないのは、日本のプロレタリア作家たちがほとんど人間の労働を描いていないということだ…

新人会

新人会世代で知的エリートの社会的自意識が変化しているということ だいたい、文学者や知識人というのが、ナンバースクール→帝大というほとんど同窓会的な集団になったのはいつからだろう。大正文士も帝大出身者が多いかもしれないが、明らかに立ち位置が違…

太宰と高見

2月28日のエントリーに、高見順の「嗚呼いやなことだ」が太宰治を連想させるという意味のことを書いたが、平野謙が「高見順の『故旧忘れ得べき』ころの作風と太宰治の『道化の華』ころの作風とが多少似ていたのは事実である」と書いているのに気づいたの…

大正と昭和

中村光夫「佐藤春夫論」(「昭和十年前後」より再引用) 昭和文学の大正のそれとのちがひは、一口に言へば、作家が自分の個性を絶対視できた時代がすぎ去って、彼の表現がいつも他者を意識しなくてはならなくなったことです。この他者は作家にとって二つの形…

本多秋五「蔵原惟人論」

プロレタリア芸術運動が、むしろ芸術上のアヴァン・ギャルドに源流を持つ、という本多の説。確かに考えてみる必要はあると思える。 プロレタリア芸術運動は、その担当者からいうも、その内容からいうも、プチブル・インテリゲンチャの革命的芸術運動だった、…