2006-03-01から1ヶ月間の記事一覧

『純粋理性批判』3.2

「我々の一切の表象は、悟性によって実際になんらかの客観に関係せしめられる」。これはつまり、円錐形を直観するとき、私たちはつねにその色までも想像してしまうということだろう。数学においてはその色(具体的な直観像)は不必要なのだが、実際には数学…

『純粋理性批判』3.1

「何ひとといえども実在性という概念に対応する直観を、経験以外に求めることは不可能である、つまりア・プリオリに自分自身のうちから得るわけにはいかない、従ってまたかかる経験的意識よりも前に実在性を意識することはできない。我々は、経験をまったく…

増村保造、山内鉄也、山中貞雄

映画を三本。増村保造の『巨人と玩具』は、開高健原作の社会風刺劇。とにかく、当時(1958)の紋切り型の社会批評を一層通俗的にしたような台詞を、最初から最後まで俳優たちががなりまくる。というわけで、騒々しいのなんの。見終わったあとで、げっそりと疲…

購書目録(ただし未定)

ここ三週間ばかりのあいだに、やはり読まねば、と思うようになってきた本を備忘としてメモ。実は先月給料分をこえる額を本につぎこんでしまったので*1、今は控えているのだった。いかにもつまらなそうな本も入っているので、日本だったら図書館に走ればすむ…

純粋理性批判2

カントは「自由」の存在可能性を論じる部分で、「現象」には二種類の原因性(因果関係)が考えられなければならないという。ひとつは、感覚界において知覚される原因性であり、もうひとつは、それが「現象」である以上想定される「物自体」による原因である…

『西鶴一代女』

溝口健二の『西鶴一代女』。最初は江戸時代にしては、妙に近代人めいた人物たちの言動に、居心地の悪さを感じていたのだけど、途中からそんなことはどうでもよくなってしまう。とくに、田中絹代が生き別れた息子がのる駕篭に遭遇する*1場面から十五分程はた…

カント『純粋理性批判』

先週からぽつりぽつりとカントの『純粋理性批判』を読んでいる。何かの待ち時間に一ページだけといったペースなので、読了はおぼつかないが*1,それでもときどきはっとするような文章にあう。たとえば、カントは「経験の対象」(現象)は、経験においてのみ与…

越富探検記

前から聞いていた人民北路の越富(yuefu)広場へいってみる。ここにはDVDショップが軒を連ねていると聞いていたのだが、ついてみてびっくり。迷路のようなビルの中にちまちまとしたショップが並び、その半数がフィギュアの店。残りは日本製ゲーム、アイドル…

成瀬巳喜男と溝口健二

成瀬の『稲妻』と溝口の『雨月物語』を見る。『稲妻』は物語のあいまに挟み込まれる路地のカットがなんとも美しい。自分はつくづく成瀬が好きなのだと実感。やりきれない話なのだけど、暗く崩れた感じにはならず、ひとつひとつのシーンの透明な明るさ、端正…

見ることと語ること

とりあえず断片的な思いつきだけ。たぶん馬鹿なことを書くと思う。 私たちは、言葉が対象を「描写」するということに慣れてしまっている。しかし、「描写」とは何を意味するのか? むしろ、次のように述べた方が適切ではないのか。「もし、言表が対象を持つ…

思想界の淀川長治

尊敬する建築史家であるN先生のBLOGを読んでいたら、京都である高名な学者さんを囲むお茶会に出たという。現在84歳、「思想界の淀川長治」(N先生の表現)といえば、鶴見俊輔ではないのか? な、なんと贅沢な…。

を書くということ

これは言葉にしてしまえば、何をいまさらという程度の文学史的常識なのかもしれないと思うが、一応書いておく。平林たい子『砂漠の花』第一部を読んだ。たい子の文学的自叙伝である。そこで主人公の少女は、さまざまな経験をつみ、社会の諸相を「観察」する…

「方法論的総合」

平野謙は『近代文学評論体系7』の「総説」で、昭和五年を絶頂とする「いわゆる三派鼎立的状況」が、昭和七年から十年にかけてひとつのサイクルを終えた、と状況の分析をしている。もちろんそれは、プロレタリア文学の沈降のせいだ。平野は、福田清人が川端…

広州の車窓から

今日は、大学主宰の外国人教師向け日帰り旅行。広州市のはずれにある宝墨園という寺へ。寺院といっても、(中国風に)観光地化された庭園のようなもので、特に何ということもないのだけれど、それでもやはりバスの車窓から眺める路上の光景がなんとも興味深…

プロレタリア少女小説?

忙しくて三日更新を休んでしまった。ウイークデイは、授業、準備、その他とあわただしく、特に水、木は綱渡りで時間をやりくりしている感じになる。それでも少しずつ時間を盗んで、三一書房の『プロレタリア文学大系8』に収められている小説を読む。この巻…

樋口一葉『にごりえ』(昨日のつづき)

例えば、すが秀実は、言文一致という言語的な革命において目指されていたのは、作品の内容が読者の前にありありと現れるという意味での「現前性」であったのだと述べる。*1すがは、韻文ではそれが非意味的な情動(=ポエジー)として、散文では物語内容とし…

樋口一葉『にごりえ』

来週の授業のために、樋口一葉『にごりえ』を読む。一葉を手にとったのは十数年ぶりだろうと思う。二十歳前後のころ(たぶん)に読んで、「うーん、わかんない」と思ったきりだったのではないか。場所柄、日本文学のスタッフが充分おらず(というか、ネイテ…

なるほど、凄いことなのかもしれない

ざっと斜め読みしただけですが→http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/50401721.html

[三十年代]「文芸復興期」前後 最近目に触れたものの中から、気になった文章を抜き書き。 思想や文芸学規範を放念して、おのづからにしておほらかな文章を書く必要がある。もはや神経衰弱と邪推を近代心理文学の方法と考へることは揚棄せねばならぬのである…

「中国人は基本的に政治闘争しかしない」?

ここの3月7日のエントリーをみて、なんだかな、と思う。別段ここで書かれていることの大筋に異論はない。ただし、「三農問題」(農業・農村・農民)は胡錦涛政権が最初から最重要課題として掲げていたもので、今度の全人代で新しく浮上してきたわけじゃない…

中原昌也を読ませてみたら

今日は大学院の授業で中原昌也を読ませてみた。なにしろ前の日に、同じメンツでプロレタリア文学などという大時代な(?)ものを読んでいるので、少し気分をかえてあげようと最先端(笑)をとりあげることにした。中原昌也などが出てくる日本の特殊文脈が伝…

「週刊読書人」文芸時評1月

これから不定期に、昨年1年間「週刊読書人」に連載した文芸時評をアップしていこうと思う。といってももちろん、自分の書いたものがいつまでもネットに晒しておくほど価値のあるものだと自惚れているわけでは毛頭ない。時評は時評らしく、一瞬人の目に触れ…

黒澤明『悪い奴ほどよく眠る』

軽い気持ちで観出したのだが、すっかり夢中になってしまった。クロサワが世界の巨匠であるのは建前上否定はしないにせよ、日本のシネフィルや研究者のあいだで黒澤は敬して遠ざけられているような印象があるのだが実際はどうなのだろうか。確かにこの映画で…

リアリズムの問題

ワットは、近代的なリアリズムの、同時代の哲学思潮との関連にも触れている。「いうまでもなく現代のリアリズムは、真実は五感を通して個人が発見しうる、という見解から出発する。その源はデカルトとロックにあり、そうした見解を最初に充分に明確に組織だ…

イアン・ワット『小説の勃興』

大学図書館をぶらついていたら、イアン・ワットの小説の勃興があったので借りてきて読んでいる。なにしろこうした欧米の理論書が、それも日本語の翻訳がおいてあるのは稀なのだ。実はだいぶ前に原書: The Rise of the Novel: Studies in Defoe, Richardson a…

「民衆」像の系譜

3月1日のエントリーで述べた六十年前後の「農村」像の出現について、幾つかの追加点を備忘として。1、三十年代から戦争直後の時期に存在した「民衆」に関する知的言説としては、いうまでもなく、柳田國男を中心とした膨大な民俗学の体系がある。しかし、マ…

吉本隆明の言説戦略

昨日は大学院の授業で林芙美子『放浪記』を読んだ。小林秀雄やベンヤミンをサブテクストにして、大正末期から昭和初頭における、人々の経験が根こぎとなり、個人が解体していくさまを説明したのだが、話しながら少し気づいたことをできるだけ簡単に。林芙美…

{戦後}上の補足

では金水敏氏がブログで触れている「ギャル語」「○○(相手の名前)、最近、にきび減ったくない?」はどうか? これはメディア上で流通している何らかのキャラクターに基づいた発話というわけではないだろう。しかし、現実の交友関係の中での感染と同時に、メ…

役割語、農民文学、サブカルチャー

同僚のI先生が教えてくれた、というか、妻が聞いてきたことの又聞きなのだが、言語学には「役割語」という考え方があるらしい。つまり「〜だわ」とか「〜かしら」のような、特定の意味は持たないが、性的・社会的なポジションを表示するための言葉のことだ。…

link先追加!

Random Associated Texts Fairytale/Diary 童話/日記 ここだけの話としてそっとお教えしますが、わがGuangzhou Lettersのリンク先は、どれも知性あふれるヤングなnice guy&ladyばっかりです。うかつな気持ちでクリックすると頭がくらくらします。でもちょっ…