大江健三郎との一夜
作家の大江健三郎氏とお会いすることができた。会ったといってしまっては大げさで、大江氏の姿に接することができたというべきかもしれない。僕はまぢかの大江氏の姿をうっとりと見つめ、その言葉のひとつひとつにうなずく(二言、三言だけ言葉を交わした)だけだった。それでも、大江健三郎は僕にとっては特別な作家である。おそらく、一生忘れられない記憶になると思う。
この週末、北京へ出かけたのは,11日に社会科学院でひらかれる大江健三郎を巡るシンポジウムを聴くためだった。二日ほど早く北京入りしていた僕は、10日の夜に、大学院での師匠であり、このシンポジウムにメインスピーカーとして参加する小森陽一先生を空港まで迎えにいった。その後、先生の部屋で社会科学院の先生と飲んでいると、許先生という方が、いま大江さんが食事からもどって、小森先生を部屋で待っていると伝えにきた。そこで、僕たちは大江氏の部屋に移動することになった。
個人的なことがらなので詳しくは書かないけど、その晩、大江さんはある小事件のために、たいへん幸福な状態にあったらしい。僕たちの前で、彼は笑い、はしゃいでいた。でも何よりも、自分のなかの幸福感にゆったりと沈んでいこうとしているようだった。それは、一年間希みつづけた玩具を、クリスマスの朝に発見した、幼い、内気なこどものようだった。
僕は大江健三郎という作家を作品を通してしか知らない。つまり、彼が社会的にどういう性格の持ち主なのか知らない。だけど、彼が驚くほど無防備で、開けっぴろげな一面を持っていることは確かだと思う。この晩の大江氏は、彼の作品にとって大切な言葉であるinnocenseを確かに体現しているように思われた。
通常はメランコリックであることで知られる作家が、この晩、例外的にたたえていた幸福感は、見ている僕らの方までも幸せにした。そして、今後僕が大江の文学について考えるとき、僕はまずこの晩のことを思い出すだろうということ、二十年か三十年がたって、僕自身が年老いたとき、二十世紀の偉大な作家について語りながら、やはり微笑むのだろうと思って、なんとも愉快な気持ちになったのだった。