インディーズメディアの可能性とレバノン映画

友人で文芸批評家の青木純一さんが、メールマガジンの発行をはじめた。アート系と文学評論のふたつを軸に、週一二回のペースでつづけていくつもりだそうだ。青木さんの危機意識、つまり、これから文芸批評のようなものは、ますますマーケットを失い、流通ルートも細っていくだろうという見通しを当然僕も共有する。しかしこれは考えようであって、既存のメディアから脱落しつつあるジャンルだからこそ、インディーズで自由にやれるはずだともいえる。青木さんはその可能性をメルマガにみているというわけだろう。実際、若手の作家や批評家(のたまご)は、ネットでどんな展開や実験ができるかどんどん試してみるべきだと思う。
武熊健太郎がいうように

たとえば浜崎あゆみのようなマス・マーケットを相手にするミュージシャンなら現行のシステムは有利に働くけど、インディーズ系アーティストの場合は中間業者は単なる搾取構造に過ぎず、著作権はすべて自己管理したうえで、ネットで作者が直接販売したほうが収益を含めてはるかにメリットがあるのだ、と平沢さん(P-model平沢進)はおっしゃっているのですね。農作物の産地直送販売と同じことなわけです。(たけくまメモ

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で、肝心の内容だけど、かなりおもしろい
第一号では、レバノン発の幾つかの短編映画について書いているのだけど、それらが見たくて矢も盾もたまらなくなってしまった。特に中心になっているのはラビア・ムルエという監督の「FaceA/FaceB」と、「魂と血をもって」というふたつの作品。くわしくは青木純一に直接語ってもらおう。

「魂と血をもって」では、その後、えらくぼやけたデモの写真の中からムルエが自分の姿
を探し出そうとする過程が延々と続きます。左下に群衆に持ち上げられた棺が写っている
ので、どうやら殉教者に関わるデモのようです。群衆の中の一人一人の姿に映像が絞り込
まれてゆきます。そして「この中に私もいるはず」「この男が私か」「いや違う」といっ
たムルエ本人のナレーションが入ります。ところがいきなり別の人たちがインタビューに
答える声が流れ出し、その人たちのものとおぼしき名前や年齢を記したテロップが画面に
現れます。その人たちは、何か過去の出来事に関わる恐怖を語り続けます。その出来事と
は、スクリーンに映し出されたデモのことなのでしょうか。その人たちこそ、写真に写っ
ている本当の当人なのでしょうか。そこは結局、特定できません。

二つの作品のどちらにおいても、ムルエは映像と声の間にズレ、あるいは多層的な関係を
持ち込みます。その結果、映像や声が実際に記録されたものだとしても、データとしてそ
れらの記録が指示しているはずの時間や場所は、半ば行方不明な感じになります。このこ
とはたぶん、レバノンの歴史にも関係しています。何度も空爆をうけたレバノンでは、瓦
礫の下に埋まったまま死体も見つからず、行方不明になった人がたくさんいます。今回の
空爆でも、多くの人がいまだ行方不明です。不意に消えた人の姿、立ち消えになった声ー
ーその中からわずかに残った記録を夢のように再構成することで、ムルエは或る歴史の姿
を立ち現せようとしているかのようです。

どう、おもしろそうでしょう? 青木さんもそうだけど、このムルエというフィルムメイカーも、既成の流通ルートとは異なるところで、自分の「現場」での問題を、普遍的な文化生産につなげようとしているわけだろう。こうしたマスメディアにのらない文化のポテンシャリティに敏感であることは、現在の批評家のもっとも大切な責務であるに違いない。