スピーチコンテスト

 昨日は、大学の内部で学生たちの「日本語スピーチコンテスト」があった。電子辞書のプロモーションのためにカシオが主宰したものだ。僕たち日本人教師も審査員として、大教室で行われるそのコンテストを聴くことになった。やや意外だったのは、週末の夜にも関わらず、結構な数の学生たちがやってきて、楽しげに観客になっていたことだ。こちらの大学では教師と同様、学生もキャンパス内に住んでびっしりとつまった授業を消化しなければならないので、あまり街へ遊びにいく機会などはなさそうである。つまるところ学生たちにとっても、手頃なちょっとしたイベントだったのかもしれない。
 二時間ほどかけて19人の選手のスピーチを聴いたのだけど、日本語自体は、みなそれなりのレベルだったと思う。語学学習は盛んだが成果が追いついていないといわれる日本人と比べると、一般に中国の人々の語学への態度ははるかに真剣だし、学習能力も高いような気がする。中には一年ほどしか学習経験のないものもいたにもかかわらず、みんなそれなりに流暢な日本語をしゃべる。ただしそれは暗記してきた原稿があるからで、受け答えとなると、たちまち言葉につまってしまうものもいる。たぶんそうしたタイプの学習を受けてきているのだろうが、彼らの暗記能力は確かに驚嘆に値する。それは語学に関しては強力な武器だろう。
 しかし内容に関して感じたのは、ずいぶん幼いなあ、というものだった。もちろん場面が場面なので、当たり障りのない内容が求められる、ということはあるだろう。だけどだからといって、アニメの『ワン・ピース』を見て友情の大切さを知りました、などというのは19、20としてどうなのか。四人の子供を育てた父親の苦闘を述べたあと、だからいい成績をとって父親の喜ぶ顔を見るのが私の趣味なんです、と日本の教育関係者が聞いたら思わず涙ぐみそうなことをさらりと述べた子もいた。(父親は勉強を強制しなかったそうだが、その無言の圧力こそが重荷ではなかったか、と質問したのだけど、よく意味がわからないようだった。)いくらなんでも、日本の十代はもう少し屈折しているものだと思う。いや、子供じみたことや、幼稚なことをいうというのなら日本だって同じかもしれない。けれど、僕が驚いたのは、中国の彼らからは微塵もてらいや恥ずかしさのようなものが感じられないことだった。そうした〈きれいごと〉を聞いて、観客が引いたり、白けたりするわけでもない。漠然と感じてはいたのだけれど、僕が接する学生たちは、よくいえば素直で純粋なように思われる。公的な価値──学生であれば「いい成績をとる」というのも含まれるだろう──に対してあまり違和感を感じていないように見えるし、自意識の複雑骨折といったものとも縁がなさそうだ。一言でいえば、擦れていないのだ。
 教師の立場からいえば、これはありがたいということになる。例えば、僕自身学生の頃は(実は今も)、教師という存在に対してどういう立ち位置をとったらいいのか悩んでしまう方だったのだが、彼らは単純に人懐っこく、それでいてそこはかとない尊敬の念のようなものも感じられる(裏で舌を出している、という可能性は否定しないが)。たぶん彼らにとって「教師」を尊敬する──少なくともそのようにふるまう──のは、ごく自然なことなのだろう。それでこっちは、「教師」ってそんなものだっけ!?と戸惑ってしまうのだ。
 翻って感じるのは、日本で十代であるというのは、なんともしんどいことだなあ、というものだ。何をするにしても、まず自分の立ち位置を決めるために、二重三重の自意識の操作を経なければならない。僕自身、当時苦しかったが、今はもっときついに違いない。

 ただし、幾つか留保はつけておきたい。まず、大学に来ている若者というのが、全体の中では特殊な層かもしれないということだ。早い話、キャンパス内にいる彼らと、街で働いているアンちゃんネエちゃんとでは、単純に顔つきが違う。第二に、ここが広州だということだ。中国に長年いる人は、ひとつの地域を見ただけで、中国全体を語ってはならないと口を揃えていう。それだけ地域ごとの文化的偏差が大きいらしい。最後に、結局中国に来てひと月も経っていないのだということもつけ加えておこう。僕はまだ一見さんに過ぎない。この先付き合いが深まるにつれて、彼らの一筋縄ではいかなさに音をあげる日が来ないとも限らない。それはそれで、いくらか楽しみでないこともないのだが。