ある知人の死

shiku2005-09-22


尾崎翠の名前は知っていたけれども、これまでに作品を読んだことはなかった。一部の人たちが熱狂的に愛好している、マイナーで詩的な作家というのが漠然とした尾崎翠のイメージだった。たまたま、妻が持ってきた本の中に作品集があったので、ぱらぱらと流し読みしているうちに、そのなんともいえないヒューモアと、清潔な哀感に感嘆した。ふと、ウェブで尾崎を検索してみて、偶然にある知人の死を知った。彼女は尾崎翠の研究者だった。
それほど深い交わりがあったわけではない。立ち話程度のものが数度。それから、彼女を交えた数人で、アテネ・フランセにジガ・ヴェルトフを見に行った記憶がある。彼女と私は大学院の一年違いだったのだけど、もともと横のつながりというものがほとんどない場所だったので、最近大学の廊下で顔をあわすことがないな、などと思っているうちに、いつしか縁遠い人になってしまった。亡くなった時に二九歳だったという。すでに三年前のことである。
私は彼女の論文を読んだことがない。だけど、聡明ながら控えめ、それでいて、どこか芯の強さが伝わってくるような印象が私のなかに残っている。おそらくは、文章からも、そのような人柄が偲ばれるのではないか。ヴェルトフの後、みんなで酒を飲んでいたときに、美人に生まれるといろいろと辛い目に遭う、といった意味のことを述べていたのを覚えている。彼女自身美しい人であったけど、自分のことではなく、ごく近い肉身についての話だったはずだ。
親しいわけではなくとも、たまにはどうしているだろうか、と思い出すような知り合いがとうにいなくなっていることを知るのは不思議な気持ちのするものだ。暗がりのなかで階段をのぼっていて、不意に段差が切れてたたらを踏んでしまうような感覚。知らないうちに人は消え、自分ばかりが馬齢を重ねている奇妙さ。
尾崎も、三十代の半ばでいわば象徴的な死をくぐり、それ以降本格的な執筆に復帰することはなかった。彼女と、尾崎を重ねあわせるつもりは少しもないけれど、尾崎翠の名をみるたびに、彼女のことを思い出すのだろうな、と思う。ご冥福をお祈りします。