[三十年代]「文芸復興期」前後
最近目に触れたものの中から、気になった文章を抜き書き。

思想や文芸学規範を放念して、おのづからにしておほらかな文章を書く必要がある。もはや神経衰弱と邪推を近代心理文学の方法と考へることは揚棄せねばならぬのである。さらに極言すれば『近代小説』を書かうとする心持など返上して、まづ斬新の『美文』をかくことを考へるべきである。『思想』をかくまへに一大芸能を表現すべきである(保田與重郎「現代美文論」1939)

あの古いアジアの遠征のもののけにつかれたような無常迅速が、不気味に疾走していつた大衆の動き、さういふものはむしろ欣求来迎と一重の精神に通じてゐたであらう。遠征さへもが征服や人工でなく自然であつた(「日本の橋」1936)

この時期は従来、弾圧によって社会思想が閉塞した『暗い谷間』の時代とみなされ、主に、『日本ファシズム』・戦時体制への翼賛・転向か、抵抗・批判か、という枠組の下に思想的検討がなされてきた。しかし、以下で検討するように,この時期はむしろ、社会思想が時局を左右するキャスティング・ボードの賭金となり、社会変革が具体的に日程にのぼったと考えられた変革の時代であった」「当時は、高度国防国家の構築をめざす軍部や革新官僚とともに、知識人や社会運動家などの革新左翼が社会変革に深くかかわり、既成政党や財閥など現状維持派との葛藤をはらみながら、〈戦時挙国一致体制〉を形成していた。従来、『日本ファシズム』確立への道標とみなされてきた国家総動員法制定、大政翼賛会成立などは、こうしたヘゲモニー抗争の産物であり、そのキャスティング・ボードをにぎっていたのは、まさに革新左翼にほかならない(米谷匡史「戦時期日本の社会思想──現代化と戦時変革」『思想』1997・12)

もし〈非常時〉と〈文芸復興〉を軸に論じるなら、絶対に忘れてならないのが大衆文学の作家たちの動向である。三三年七月、小栗虫太郎が百枚の読切「完全犯罪」で颯爽とデヴューし、木々高太郎が三四年一一月に「網膜脈視症」をひっさげて登場したのは『新青年』という、もっとも読者参加を意識した既成媒体だった。しかし、探偵小説の「第二期隆盛期」(江戸川乱歩)と呼ばれたこの時期は、『ぷろふいる』をはじめ多くの雑誌が創刊されたし、夢野久作の書き下ろし単行本『ドグラ・マグラ』(三五年一月)なども特筆すべきだろう。だが、探偵小説雑誌の寿命は短く、海野、小栗、木々らの『シュピオ』(三七年一月〜三八年四月)の廃刊を最後に、時局は「新しい」探偵小説のありかたを要求することになる(悪麗之介「一九三五年前後の創刊誌一覧一読」『〈転向〉の明暗』)

日本の革命運動が潰滅状態を余儀なくされてから日中戦争が開始するまでの、暗い谷間の時代といわれる「昭和十年前後」に、いったい女性作家たちはどのような文学を紡ぎだしていただろうか。(略)作品名のみ簡単に列挙してみると、一九三二年に「こほろぎ嬢」を発表し、薬の中毒から狂気に見舞われ郷里に連れ去られた尾崎翠が、三三年には『第七官界彷徨』を刊行している。左翼系の作家では、平林たい子が「没落の系図」「女の問題」「桜」「その人と妻」「エルドラド明るし」等を、宮本百合子が「乳房」「雑踏」「海流」「道づれ」等を発表。つづいて佐多稲子が「牡丹のある家」「乳房の悲しみ」等を発表し、戦前の代表作「くれなゐ」を連載している。当時、左翼思想に関心を抱いていた円地文子は戯曲集『惜春』を刊行後、小説に転じて『人民文庫』に「散文恋愛」を発表し、野上弥生子が日本ファシズム下の転向問題を扱った「黒い行列」のちの「迷路」の連作を発表しはじめる。
 この時代以降を特色づける女性作家の新動向の筆頭岡本かの子が、三六年に「鶴は病みき」で文壇にデビューし、「混沌未分」「母子叙情」「花は勁し」「過去世」「金魚撩乱」を矢継ぎ早に発表。同じく宇野千代が「色ざんげ」「別れも愉し」「未練」を、林芙美子が「泣虫小僧」「女の日記」「稲妻」「牡蠣」を発表している。また、吉屋信子が「女の友情」「夫の貞操」を連載し、中里恒子が「花亜麻」「西洋館」「物語風景」を発表。この時代に活躍しだした大谷藤子が「半生」で『改造』の懸賞小説に応募して女性として初当選し、〈新々女性作家〉としての地位を確立。矢田津世子も「神楽坂」で第二回芥川賞候補となり人民文庫賞を受賞して、文壇的地位を獲得している。同じく小山いと子も「海門橋」と「深夜」で、それぞれ『婦人公論』と『中央公論』の懸賞小説に当選しているのである。
 さらに林芙美子吉屋信子がペン部隊として従軍した日中戦争開始後の文学状況も少々見ておくと、百合子が「杉垣」「三月の第四日曜日」「おもかげ」「広場」を、稲子が、「樹々新緑」書き下ろし長編『素足の娘』他多数発表している。文子もまた書き下ろし長編『日本の山』を刊行、壷井栄が「大根の葉」で作家として出発し、「暦」で新潮文芸賞を受賞して作家の地位を確立している。かの子が「東海道五十三次」「老妓抄」「鮨」「家霊」と再び矢継ぎ早に発表して三九年の二月に生涯を閉じるが、死後も「河明り」「雛妓」「生々流転」「女体開眼」と遺作が発表しつづける。宇野千代が「月夜」『恋の手紙』、芙美子が「牡鵑」「魚介」を出している。(長谷川啓「女性文学に見る抵抗のかたち」『〈転向〉の明暗』)

一九二八年、商工省は「工芸指導所」(所長・国井喜太郎)を開設している。工芸指導所は、世界恐慌によって悪化した経済に対応して、各地の産業をデザインによって活性化することを目的に動きだしていった。工芸指導所は、もののデザインを量産に見合う合理的なものにするためのさまざまな試みを行った。
この組織には、豊口克平、剣持勇をはじめ東京高等工芸学校(現千葉大学)の出身者が多く参加していった。したがって、彼らは木檜恕一や蔵田周忠といった合理主義的な視点を持ったデザイナーの影響を少なからず受けていた。(略)工芸指導所は一九三三年にはブルノ・タウトを嘱託として招聘し、新たなデザインの可能性を探ろうとする。また、一九四〇年には、フランスのデザイナーシャルロット・ペリアンを講師として招聘している。(略)工芸指導所を開設させたのは、商工省の官僚であった岸信介や吉野信次たちであった。彼らは、一九三〇年代に入るとはっきりした産業合理化政策を推し進めていった。彼らの産業合理化の政策は、他方で生活の合理化を必然的に含んでいた。(略)一九四一年、商工省は「国民生活用品展覧会」を開催する。この展覧会には、工芸指導所のデザイナーの総動員がはかられた。商工省はこの展覧会の要旨を次のように述べている。「高度国防国家は国民の衣食住の全般に亘って国策に応ずる標準化、合理化を要望する。…今や時局は一層広範なる生活規正を求め、生活用品の国民的標準を要求する」(『工芸ニュース』一九四四年一一月号、工業調査会) (柏木博「合理主義と日本的なデザイン」『〈転向〉の明暗』)

大正期の生活合理化運動の延長上にあるのは明白に思える。前川國男の軌跡なども参照。

一九三四年(昭和九)年一〇月、グラフ雑誌『NIPPON』が発行されたとき、どうみてもそれほど注目されたとは思えない。六四ページの季刊雑誌、英語を中心にドイツ語、フランス語、スペイン語併記のこの雑誌の性格は、日本文化と社会を海外に紹介する雑誌であった。在外の日本公館を中心に配布されたものだから、日本国内では一般の目に触れることは少なかった。(略)名取のメディア構想は「報道写真」の提唱として浸透していく。ルポルタージュ・フォトを報道写真という訳語に定着させたのが、伊奈信男(写真評論家)だった。「報道写真とはニュース写真をも包含する、あらゆる報道を行う写真であるが、その中心を成すものは、単なるニュース写真ではなく、自然と人生とのあらゆる現象と事実とを幾枚かの「組写真」によって報道するものである。しかもそれは主として印刷化を通じて行われるものである。報道写真に於て写真は最も威力を発揮する。(略)印刷化によって大衆的伝達の可能となった報道写真こそは、イデオロギー形成のための絶大なる武器である」。(『セルパン』一九三五年一一月号)(略)ナチス・ドイツの時代になって、外国人の就業が規制されて帰国した名取が、日本工房を立てたのが、一九三三年。名取、二三歳。同人は、伊奈信男、岡田桑三(俳優の山内光)、木村伊兵衛、原弘であった。(略)雑誌『NIPPON』は赤字続きで、名取は資金繰りと、後には用紙の配給の確保から、陸軍をバックにした雑誌の発行を意図するようになる。そのために、日本軍の対外宣伝雑誌が構想され、実現されていく。上海に滞在するようになった名取が、「中支」派遣軍特務部報道班に、自らのスタッフカメラマン三人を嘱託にする約束を取り付け、三台の自動車の提供,陸軍機密費の提供、外国への宣伝写真サービス会社の設立などの便宜を手にする。アメリカや中国の日本軍批判の宣伝に対抗するように、『SHANGHAI』(一九三八年一一月発行)や『CANTON』(三九年四月)、『MANGZHOUGUO(満州国)』(四〇年春)などの雑誌を、それぞれ英文で刊行する。『SHANGHAI』はどぎつい政治的な宣伝雑誌だが、他の二誌は文化的な構成で、単なる軍部の宣伝雑誌の枠を超えている。これらの雑誌から、デザイナーの亀倉雄策が育っていく。(略)同じ時期、名取と袂を分かった岡田桑三は、ヒトラーの『我が闘争』に依拠した写真宣伝を提唱し始めていた。(略)岡田は、陸軍参謀本部をバックにした東方社を設立し、モンタージュを駆使した対外宣伝誌『FRONT』(一九四一〜)を発行していくのである。(中西昭雄「名取洋之助の「報道写真」と対外宣伝グラフ誌」『〈転向〉の明暗』

この時代、名取の工房にいたまだ無名の土門拳は、武田麟太郎に接近し「人民文庫」周辺の作家たちと交流していたらしい。(参照http://kajika.net/furusawa/990107.htm)晩期の「人民文庫」の表紙には、土門の写真が使用されている。土門の写真集「風貌」にはそのころのタケリンも収められている。
三十年代を通して行われた「リアリズム」という言葉を巡って行われた熾烈な闘争(何が真正な「リアリズム」なのか)、具体的には「ブルジョア・リアリズム」と「プロレタリア・リアリズム」、新興芸術派の表現手法、「社会主義リアリズム」、人民文庫派の「糞リアリズム」、その後の「報道文学」「報道写真」、またリアリズム=近代主義総体の反措定としての日本浪漫派が死滅した後に、それらを総括するようなものとして、五十年代に主線となったリアリズムが現れた、という仮説が成り立つかもしれない(もちろんそれが唯一の「リアリズム」というわけではない)。ここで考えているのは、土門拳黒澤明丹下健三といった作家たちなのだが。彼らが自己形成を遂げた年代(三十年代後半)に議論されていた他の問題、「民族=日本的なもの」「合理性」「ヒューマニズム」などにも、彼らは総合的な解決を与えたとみなせる。