「中国人は基本的に政治闘争しかしない」?

ここの3月7日のエントリーをみて、なんだかな、と思う。別段ここで書かれていることの大筋に異論はない。ただし、「三農問題」(農業・農村・農民)は胡錦涛政権が最初から最重要課題として掲げていたもので、今度の全人代で新しく浮上してきたわけじゃないし、義務教育の無償化も、農業税の廃止もすでに決まっていたことだった。*1けれど、最後まで読んでがっくし。落としどころは結局「中国人は基本的に政治闘争しかしない人たちだから」かよ。finalvent氏は、三農問題も政争の具になるだけで──しかし政争にならないような政策がどこの国にある──結局何もかわらないでしょ、といいたいようだが、三農問題への取り組みはお上が密室で勝手に決めた、というようなものではない。19、20の学生に聞いても、沿岸部と西部の経済格差、とくに教育と医療の不均等が今の中国の問題です、という答がかえってくる程度には国民的なコンセンサスなのだ(その前史には、知識層による議論の盛り上げがある)。もちろん僕のような素人にも、この問題が容易に解決するわけないのはわかる。いや、これから多くの紆余曲折があり、悲惨なシナリオも除外できないない、というのが常識的な見解だろう。しかし、今後中国の社会構造がどのような推移を辿るにせよ、そのままアジアの国際状況に、つまりは日本の今後に決定的な影響を与えることは明白なのであれば、しょせん中国と肩をすくめるそぶりというのは、むしろ間の抜けた態度じゃないか? それにしても、最近この手のものが多すぎる気がする。つまり、中国なり韓国なりの状況をひとくさり述べたあと、結局「特殊な人たちだから」に落とし込む。最後に残るのは無視と無関心、ほらねうちらとは関係ないっしょ、というメッセージだ。これではそれまでの状況認識なり分析なりがたとえ的確だったとしても、すべておじゃんだ。要は変化への感受性が摩滅しているだけで、日本の世論がこの程度のものだとすれば、先行き暗いなあ、とそれこそなけなしの憂国の情をかきたてられてしまう。日本でも、70年代から80年代にかけて、山崎正和ら膨大な日本特殊論(文化論)が広く受容され、一貫して保守主義イデオロギーになってきたわけだが、これは経済大国化した日本の──対米従属下の屈折した、といっておこう──自負心を表現するものだった。それがいつのまにか(日本が自信を失ったということなのか)、特殊性が中国や韓国に押し付けられているような感すらある。あれあれ、日本こそが、アジアのなかで特殊な文化を持った国ではなかったの、と思ってしまうのは僕だけだろうか。経済的に上昇している地域にだけ、「特殊」というレッテルを貼付けているだけではあんまりというものだろう。最近、ある知人とも話したのだが、中国では「政治」というものの位相が日本とはまったく異なっていると感じる。たとえば共産党というものを、日本の政党や政治組織のイメージで考えるなら大きく誤ることになる。それは生活のなかにもっと微細な根をのばしており、軋轢も含めてはるかに日常的なものなのだ。日本の体制/反体制といった言葉がどうにも効力を失うと感じられるのはここだ。まちがいなく、中国には膨大な社会矛盾が蓄積している。しかし、左派も含め日本のメディアはそれを抑圧と被抑圧というイメージでしかとらえられずにいる。それじゃあ何か抜け落ちちゃうんだよな、という感じがずっとある。この前、ある社会学者の方と会った。彼は、政治のことなんて考えたこともない普通の中国の人たちのなかで、逆説的にどのように政治が溶け込んでいるかを実証的に調査していた。他人の研究の話だから詳しくは書けないが、それはとても興味深いものだった。北京の政治家たちの挙動を野次馬的に覗き込むのではなく、そうした部分を見ていかないかぎり、たぶん中国のこれからはわからないのだと思う。

*1:たとえばここ