[雑]桂林旅行
9、10、11と同僚の先生方と広西チワン族自治区の桂林へ旅行。飛行機で桂林に入り、船で河を下って陽朔という街に入り、翌日またバスで桂林に帰るというコースだった。圧巻はなんといっても河下りで、山水画のようなというといかにも平凡だが、細長いの、とんがったの、ゴツゴツしたのと、嘘みたいな形をした奇峰が次から次へと両岸から迫ってくる。陽朔という街は、その奇峰のあいだに街があるようなもので、普通の家やらガソリンスタンドのすぐ裏手にどーんと山が聳えていたりする。いやゆる山がちというのとも違って、基本的には平らな平面のあちこちから、何十メートル何百メートルもある岩塊がニョキッと空へと生えている感じ。モグラたたきゲームの穴から、何十匹もの(それもまちまちの形をした)モグラ達が一斉に顔を出したような状態といったらいいか。自然にこんな造形ができるとはやはり驚きで、いきなり縮小されてジオラマの中に置き去りにされたような、なんとも不思議なめまいに襲われるのだった。
船で下ったリ江という河では、太い竹の幹を数本束ねただけの簡単なイカダで住民達が行き来しているのだけど、そのうちの一艘が水上を滑って、思い切りこちらの船体に寄せてくるのには驚いた。衝突する!イカダは粉々に砕けて沈むに違いないと思った瞬間、乗っていた男がひらりとこちらの舷側に飛び移り、なんと窓から土産物を差し出す。ほとんど当たり屋的な神業に感嘆。海賊業にだっていつでも転身できるだろう。だけど、その土産物が例によって、偽ヒスイの和尚の置物とかなのはどうなのか? もう少し買いやすいものであれば手も伸びるのに。


[雑]建築におけるアルマジロ問題について
村上隆ナルミヤ和田義彦贋作問題と、最近美術界で話題になることの多かった盗作についての問題が建築の世界でもおきた。

1、建築家・青木淳氏が絵本『家の?』において、元所員である小野弘人氏が青木事務所在籍時に作ったキャラクター「アルマジロ人間」を小野氏に無許可で使用。
2、元所員であった小野弘人氏がこの無断使用について問い合わせると、青木氏は所員が作ったものは「法人著作物」として青木事務所に使用権利があると反論。
3、しかし絵本『家の?』には「法人著作物」であるという記述が一切なく、本の表紙には「建築家・青木淳」と書いてあり、さらに本のあとがきには、この絵本が青木氏個人の私的な思いによって出来たと表現。
http://d.hatena.ne.jp/chocopie/)より引用

ヤフーニュース(http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060608-00000261-kyodo-soci)やスポニチhttp://www.sponichi.co.jp/society/news/2006/06/09/08.html)などでもとりあげられている。絵本の販売差し止め請求を行っている小野弘人氏自身が、訴状などを自分のweb(http://armadillon.exblog.jp/)で公開しており、そこでくわしい経緯がわかる。また、建築史家の中谷礼仁氏も、ブログ(http://www.acetate-ed.net/blog/nakatani.php?itemid=756)で繊細な議論を掲載している。
僕はこれらの文章を興味を持って読んだ。というのは実は僕も、ここ数ヶ月、秘かに大規模な「盗作」プランを温めており、その時がきたら、見事に「盗作」してやろうと思っているからだ。ただしその時はそれがオリジナルであるように偽装することなどはしないつもりだ。読者の誰もが、「なるほど、こう盗んだか」と納得するようでなければならない。
それと、現在僕が中国と言うコピー天国に暮らしているということもある。僕が見ている映画はすべて海賊版のDVDで、コピーの恩恵を充分に受けている。もともと僕はコピーライトの厳格な適用を支持する立場ではない。むしろ、ある種の知的成果や文化生産物に関しては一定コピーライトが制限され、利用の自由が保障された方がいいと思っている。コピーライトの中でも、財産権はある程度制限を受け、逆に人格権は守られるべきだという考えだ。しかしその僕でも、この事件に関しては、明らかに非は青木氏にあるように思える。
ちなみに、僕は小野弘人氏から直接教えを受けたことがある身であり──といってももちろん専門的な建築技術などではなく、ものを造る上での気迫のようなものだが──心情的には当然小野氏の側に近い。しかしそういった個人的なつながりがなくても、同じ判断を下しただろうと思う。これについては、上記の中谷氏の意見が一番行き届いているのではないだろうか。つまり、創作というのはつねに先人が遺した情報や形態を変形していく悠久の過程であり、しかしまた同時に、個人はその変形過程に「参画」したという「経験」を持つ。そしてこの「参画経験」を保障する権利は与えられなければならない。僕なりに要約するとそうなる。
今回のケースの場合、争点はもちろんキャラクター「アルマジロ人間」のオリジナリティではない。「アルマジロ人間」のイメージが小野氏の子供時代にまで遡ることのできるものだということは、物証(?)http://pds.exblog.jp/pds/1/200606/12/31/nikki01.jpgが示していて、証明としては百点に近い。(余談になるけど、この小野少年がかいたアルマジロが超かわいい。下の物語にも注目。「みちゃったってなんだようだってー」それは、すかあとのなかみーーーー」(笑))しかし、それさえも変形の過程として限りなくひろく捉えたとしても、「アルマジロ人間」が小野氏という個人の身体を通してしか生まれなかったことは明らかであり、その「参画経験」は明記されなければならない。それを行わないのは、小野氏の一回的で主体的な経験を奪い取ることなのだ。
中谷氏がいっているのは、モノとして生み出された事物を利益を生む財産として守れということではなく、「何かを生み出した」という経験こそが最大の「財産」なのだ、ということだろう。これは何らかのクリエイションに関わる人間には、自然に納得がいく結論だ。
それから、小野氏のwebに載っている岡崎乾二郎氏の「意見書」はそれ自体が見事な芸術論になっていて、すごくおもしろい。そして、同じく小野氏の描いた「アルマジロ人間」のイラストがかなりイケていて、キャラクターとして魅力的。その上、ページの一番下部に載っている建築作品の写真もやたらとカッコイイ。実際にお会いしていると、ただただ口の悪い下町のあんちゃんみたいに見える小野さんが、webを通すことで何だかすごい建築家みたいに思えて来たのが、今回の事件の個人的な余得。