亀井勝一郎の歴史意識

亀井「現代歴史家への疑問」を読んでいて思ったことをメモ。
○「皇国史観」と「唯物史観」(というかある種のマルクス主義的な歴史記述の方法)が、「典型的人物」に依拠している点で相似しているという指摘。
○しかし、亀井は「典型的人物」という考え方自体を否定しているわけではない。歴史は「人間を描く」行為であり、典型的人物との邂逅が歴史への興味だという。それはまた民族性や歴史の流れに「自己の生の源泉」を確認したいという欲求だという。
○亀井の歴史観は、やはりいかにも浪漫派的だ。歴史は子を亡くした母親の思いのようなものだという小林秀雄の言葉の残響が聞こえる。歴史はある種の「文学」になるのであって、亀井が歴史家の表現力の不足をとがめるのは当然だといえる。
○しかし今からみれば問題なのは、「文学」が「人間を描く」ものかどうかだ。そうではないだろう。
○55年前後は「芸術と共同体」という問いが浮上してくる時期だ。国民文学論から山本健吉まで。これには戦後マルクス主義のコース変更(偏向?)の反動かもしれない。「プロレタリア文学」が「民主主義文学」に変わるのと同時に、マルクス主義批評は「人間」「個人」を強調するようになった。その限界がこの時期に意識され、近代批判の潮流を成していく。
亀井勝一郎という鵺的な批評家の立場はあいかわらずはっきりしないが、きわめて時流に敏感だったとはいえるかもしれない。