広州で「南京」と「ヒロシマ」について考え(させ)る

 担当している授業のなかに、「作文」というのがある。もちろん日本語で、ある程度長い文章を書かせる。といってもいきなり書けといっても無理だろうから、あらかじめこちらからエッセーの一節なり、論文の一部なり、模範となるような文章を提示して、その主題について簡単な解説を加えたあとに、ではどうぞ、ということになる。
 これまでは主に、「故郷」とか「子供の頃の思いで」といった、ノスタルジックな、というかややヌルいテーマを与えていた。最初は身近で書きやすい内容から始めようと考えたためだが、実は学生たちの個人史をのぞいてみたい、という下心もあった。激動する中国社会を生きている彼ら・彼女らが、どのような環境や階層で育ったのかを垣間みることで、彼らの社会観を一端なりとも知っておきたい、という気持ちがあったのだ。
 けれども、言葉の問題をさしおいたとしても、まだ20歳や21に過ぎない学生たちが、目の覚めるような内容の文章を書くはずもないのも当然のことだ。例えば「故郷」というテーマで提出される作文のほとんどは、素朴な郷土愛の流露にまかせて、著名な景勝地の名前を書き連ねた拙いガイドブックのようなものにすぎない。とはいうものの、故郷礼賛の文章にまじって、ただ故郷の貧しさを淡々と突き放したように書いてくる生徒がいるのに気がつくと、思わずはっとしたりするのも確かだ。中産階級の子弟であることがあらわな他の学生たちのあいだで、彼はどう感じているのだろう、などと。
 だがこの授業も四回目になるので、いよいよ政治問題に踏み込んでみることにした。テーマは当然「歴史認識問題」というやつである。素材としてとりあげたのは、溝口雄三『中国の衝撃』からの一節。ここで彼が問題にしているのは、歴史というものがつねに何らかの感情を憑依させた「記憶」をとおしてしか現れないこと、そして日中間では、決してこの記憶が交差しないことである。僕はこの文章を解説するにあたって、それぞれの記憶の内部で、「南京」と「ヒロシマ」というふたつの固有名が、そこから歴史の全体が定義されるような特異点になっていると述べた。(さしあたり、「南京大虐殺」の犠牲者数についての議論は脇におく。この出来事の特異性は数の多寡によるものではないとおもうからだ。)また原爆写真などを見せながら、日本人にとって、「ヒロシマ」の記憶がいかに重く、リアルなものとして生き続けているかについても述べた。その上で、このふたつの記憶のあいだのズレをどのように認識できるか、どのような対話が可能か、というのが今回僕が出したテーマだった。口頭でうまく説明できたとは思わないが、他者の記憶が抱えているリアリティというものを──自分の記憶を裏切ることなく──どうしたら真摯に受け止めることができるか、というのが僕の問題にしたかったことである。生徒たちはおおむね真剣に聞いていたように思う。
 では彼らの意見はどのようなものだったのか? 結果からいえば、予想以上に穏やかな見解が多数を占めていたような気がする。それはそれでどこかほっとするのだけれど、別の意味では、記憶というもののもつ深みにまで降りていかなかった意見だとも思えてくる。例えば、自己紹介のときに唯一、日本は中国に謝罪すべきだとのべた女子学生は、「民衆」には罪がない、まずは両国の交流を促進すべきだ、と書いている(これは中国の公式見解にも近いわけだが)。その他にも、戦争を憎み、平和を愛好するといった意見、まずはお互い相手の気持ちになるべきだ、といった主張も多かった。だけどもこうしたまっとうといえばまっとうな考えだけでは、記憶が孕んでしまった血みどろの情動と折り合いをつけていくことはできないだろう。
 だが一方、25人ほどの生徒のなかで、中国の反日感情が行き過ぎているのではないかと書いたのは一人だけだったし、数人はっきりした日本批判もあった。彼らは自分の意志で日本語科を選択している学生なわけで、基本的には日本に好意的なはずである。(そしてこれは、実は中国人全般に感じるものでもある。街で出会った人を含め、僕が日本人であることを知って敵意を向けられたことは一度もない。逆に「客人」に対する軽い好意のようなものを感じる。)たぶん学生たちは、実際日本文化を愛好しているし、直接反日デモに参加するようなこともないだろう。今後、日系企業に就職したとしても、愛想良く日本の同僚たちとやっていけるだろう。けれども、そうした積極的な日本のパートナーになっていく層でさえ、少なくとも歴史問題に関する限り、ある種の鬱屈と不信を抱えているのだということは、真剣に受け止めておく必要があると思う。
 ただ、彼らの意見を読んでいて、しくじったかな、と思う部分もある。というのは、15分ほどしか解説の時間がとれなかったこともあって(もともと「語学」の授業なのだ)、「南京」と「ヒロシマ」という象徴的なイメージによりかかりすぎたかもしれない、ということだ。もはやすれ違うばかりのふたつの記憶の固有性を問題にしたかったのだが、特権的な固有名に集約してしまうことで、現実の複雑さを抑圧してしまったかもしれない。それは、ある女子学生が、自分は原爆の写真に驚かなかった、と書いてきた時だ。すでに南京の写真を見てしまったから、と。僕がのぞんだのは、「南京」と「ヒロシマ」を悲惨さという同一のカテゴリーで捉えることでも、ましてや等価で交換(相殺)可能な何かとして考えることでもなかった。反対に、他の事象に還元できない事件として、その責任を考えることだったのだ。
 最後に、学生たちの作文のなかで、もっとも感銘を受けた一節を挙げておこう。それは、「南京」に関して日本人は、中国人に対してではなく、人類に対して謝罪しなければならないというものだ。これは確かに、青臭い観念的な意見かもしれない。が、もっとも普遍的なパースペクティウ゛でもあるだろう。そこには、歴史を無化するのではなく、しかしその傷跡への固着から離脱しようという態度があるからだ。同様に、僕は米国が一瞬で十数万の非戦闘員をこの地上から蒸発させたことも、それこそ「人道に対する罪」として告発される必要があると思う。もちろん、あらゆる歴史的残虐行為も。