役割語、農民文学、サブカルチャー

同僚のI先生が教えてくれた、というか、妻が聞いてきたことの又聞きなのだが、言語学には「役割語」という考え方があるらしい。つまり「〜だわ」とか「〜かしら」のような、特定の意味は持たないが、性的・社会的なポジションを表示するための言葉のことだ。例えば「指輪物語」(もちろん原作の方)のガンダルフは「わしは心からあんたが好きじゃ」などとのたまう。なにしろガンダルフだから。魔法使いだから。老人だから。I先生によると、これが外国語教育では難題らしい。彼女は生徒が「〜かしら」などと使うので、それは上品すぎて、なかなか使えないよ、と教えたのだが、「私は上品な日本語を使いたいんです」と逆襲されたと言う。さて、どうするか。確かに、役割語はその場の文脈上での演技の要素を含むので、外国人には難易度が高いだろう。役割語の研究者である金水敏氏(これも教えてもらった)はこう書く(http://skinsui.cocolog-nifty.com/skinsuis_blog/cat4795447/index.html)。「私の現在の考えでは、役割語はあらゆる言語に存在するが、日本語は私の知っている言語の中でも、比較的役割語が現れやすい言語であるらしいことが分かってきた。言語の仕組みの中で、話し手のカテゴリーを示しやすい道具がふんだんにそろっているのである。その最たるものが、「わし」「おれ」「ぼく」「わたし」のような代名詞、そして「行くよ・行くぞ・行くぜ・行くわ」のような文末の形式である。例えば英語を例にとると、一人称の代名詞は〃I〃一語だけだし、文末にはほとんど何も付けることができない。別の方法で話し手の属性が匂わせられることもあるのだが、日本語ほどあからさまなマークはあまりない。」当然、僕は専門家以上の知見も意見も持たないが、妻が話すのを聞いてとっさに思ったのは次のようなことだった。まず役割語が、戦後のマスメディアの興隆の中で強化されていったものであるのはまちがいない。たとえば現実の日本から方言が消えていくのと同時に、それはメディアのなかに転位し、「田舎者」を示す記号となる。するとそこから(飛躍を承知でいうが)以下のふたつが導かれるかもしれない。1最近流行りの日本のキャラ文化なるものは、むしろ日本語の言語学的条件に規定されている(それを無視して論じても無意味である)。2サブカルチャーは、五十年代以降の飛躍的な発展を通して、膨大なジャンル、形式,スタイルを増殖(細分化)させてきた。それは受容者の内部から、多様で多形的な欲望やイメージを開発し、引き出しつづけている。だが実のところ、サブカルチャーの興隆は同時に戦後日本の均質化の過程に依拠しているのであって、役割語はそのひとつの例証である。さて、ここでまた話が飛ぶ。戦前のいわゆる「農民文学」を読んでいるときに感じる違和感に、農民たちに向けられた視線の近代性がある。それらは対象として土着性──当時の言葉でいえば「封建性」か──を描いているかもしれないが、その叙述のスタイルは明らかに近代的なのだ。農民たちは方言を話すかもしれない。けれどもそれは単にリアリズムなのであって、役割語=キャラクターではないだろう。ここに、竹内好らがいう、日本のマルクス主義近代主義としてあったという問題がみてとれるかもしれない。日本文学で、近代に抗するものとしての農村のイメージが出現するのは1960年前後、例えば深沢七郎の『楢山節考』は1956年に書かれている。しかし、それはいうまでもなく日本から伝統的な農村が消滅するのと軌を一にしていた。だとすれば、この「農村」イメージの出現は、サブカルチャーの浸透とパラレルの現象として捉えられなければならないのかもしれない。事実、『東京のプリンスたち』を読めば分かるように(なにしろ日劇ミュージックホール出身なのだ)深沢七郎サブカルチャーの人でもあった。再び話を元に戻す。現在のサブカルチャー論の問題は、サブカルチャーがいわば裏側に均質な平面をはりつかせている──そして、それは表象するとしたらナショナルな空間として表象するしかない──という部分に触れられていないことだと思う。とはいえそれをナショナリズムといってしまうのは微妙かもしれない。その平面は古典ナショナリズムのように、何らかのモデルへの同一化を強制するものでも、内と外とを明瞭に切り分けるようなものでもないからだ。だからそれはいくらでも外部に浸透できる(実際、中国の学生なんて日本のアニメづけだ)し、まず何よりも資本の運動に似ている。