リアリズムの問題

ワットは、近代的なリアリズムの、同時代の哲学思潮との関連にも触れている。「いうまでもなく現代のリアリズムは、真実は五感を通して個人が発見しうる、という見解から出発する。その源はデカルトとロックにあり、そうした見解を最初に充分に明確に組織だてて叙述したのは、十八世紀中葉のトマス・レイドであった」*1。このような考えは、個人に伝統的な観念、類型、類似に頼るのではなく、個的な経験を注視すること、普遍ではなく個物に集中することを求める。作品がどれだけ真実を盛り込んでいるかの判断もまた、古典的な規範に準拠しているかではなく、体験に対する真正性に基づくものとなる。新しさ,独創性,正確さといったものが重要な判断基準になる。もちろんこの認識論的・美学的方法の変遷は長い時間をかけて行われた。「たとえばジョージア・レイノルズ卿は、オランダ派の「文字通りの真実…偶然のちょっとした変形をこうむる自然の細部への細かな精確さ」よりも、イタリアの絵画の持つ「偉大で概括的な観念性」を選ぶと述べて、自分が正統派の新古典主義をついでいることを明らかにした。一方、フランスのリアリストたちは古典派の「詩的理想」より、レンブラントの「人間的真実」を信奉したことは想起されるべきである」*2。僕はここで重要なのは、リアリティというものを構築する素材となる知覚、経験というものが、つねに具体的な意識・個人を通してしか現れないということだと思う。リアリズムという点では文芸に先駆けていたフランドル派の絵画について、ツヴェタン・トドロフはこういう。「フランドル絵画は、少なくとも三つの特徴によって規定される実践を表象の歴史のなかに導入した。ひとつめは、再現されるものの個別性である(絵画は抽象的な記号を表現するのではなく、ある特定の家畜小屋や生け垣を──一年のある季節のなかで、そして一日のある時間のなかで──再現し、三日も剃っていない無精髭とともにモデルの固有の顔を描き出すものとなる)。ふたつめは、再現するものの個別性である(しかじかの風景やしかじかの室内を、唯一無二の視点から眺めるのは特異な個人であり、その個人によってこうした唯一性が保証される)。そして最後に、イメージの象徴性が挙げられる。この象徴性は、可視的なものの忠実な再現であると同時に、画家と鑑賞者とが共有する意味=視点でもある。」*3異なる時間の出来事が、単一の画面に描かれることなどがなくなるのは、画面の全体がひとつの眼差しのもとにあらわれるものとして、一個の経験のフレームに収められなければならないからである。「再現するもの──画家──の個性は、何よりもまず、画家の視覚的構造に現れる。なぜなら視覚的構造とは、私たちが「透視図法」と呼んでいるものを用いて、画家独自の視点から見られた世界の断片を提示するものだからである。初めは手探りで用いられていたこの視覚的構造は、その後急速に厳密化していく(もっとも早くその効果が現れたのは、フランドルではなくイタリアにおいてであった)。中世の芸術家とは異なり、ルネサンス期の画家は、人物や対象や場所を絶対的権利のうちに存在するものとしてではなく、見えるものとして再現する。*4」一方スヴェトラーナ・アルパースはisbn:475669330:titleで、ルネサンスの新プラトン的な伝統に対抗するベーコンやホイヘンス的な知──実験や観察を重視する──が、表象以前に実在する「世界」という考えを強化していったことを強調している。「オランダ人にとって、絵は重要な意味をもつ人間の行為を写しとるものではなく、観察された世界を描写するものである。すでに確立されていた絵画的、職人的伝統は新しい実験科学と科学技術によって大幅に強化され、世界についての新しく確実な知識を獲得する手段としての絵画のあり方が認識されていた。(…)いくつか例を挙げてみよう.定位置から眺める鑑賞者が想定されることなく、まるで最初に世界が存在していたかと思われる描写(ロイスダールのパノラマ風景を前にすると、鑑賞者としてのわれわれがどこに位置しているのかという設問に解答を寄せることはむずかしい)、大きさのまったく異なるものの対比(そこに人間でも描かれて大きさの基準にならない限り、隣あわせに描かれた巨大な雄牛や雌牛と遠方の教会の尖塔とがまったく奇妙な組み合わせを演じることがある)、あらかじめ定められた枠どりの欠如(オランダ絵画に描かれた世界はしばしば作品の端が切りとられたかのような印象を与えるが、このことを逆に言えば、この世界は絵画面を越えて広がっていき、あとからの付加物でしかない枠はまえもって絵の境界を決定するような機能をもってはいない)、表層としての絵画という驚くべき感覚(絵画は窓ではなく鏡とか地図に近く、それゆえこうした絵画にはさまざまな事物の描写とともに字句が記されることが多い)、高い技倆をもつ職人芸的な表現に対する執着(例えばカルフは自然が生み出したレモンの傍らに職人芸から生み出された陶器、銀器、グラスなどを飽くことなく描きつづけた)などを指摘することができる。*5」鑑賞者の定位置を曖昧にすることは、世界が、鑑賞者と関わりなく自律的に実在している、という感覚を与えることに貢献する。これは文学においても同様に、慣習、教養といった共通した文化的コンテクストを共有した受容者層を前提としないことにつながる。さらに、あらかじめ定められた枠どりの欠如は、近代リアリズム文学にも共通する。オランダ絵画の枠組みがしばしば偶然的な感覚をもたらすように、小説も、なぜこの素材が書かれなければならないのか、ささいで遇有的なものではないか、という疑問を解消することが出来ない(しかしこの偶有性こそが、対象の真実を確証する)。この問題がもっとも明瞭にあらわれるのは、作品の冒頭と終結部(つまり枠組み)においてである。近代小説は、どうしても語りだしの不自然さというものから逃れることが出来ない。より伝統的な語りのように、語りとともに時間が生成するということがありえず、すでに連続した時間・因果関係のなかのある一点から始めざるをえないからである。だからこそ成熟した作家たちは、いかに出だしに自然さの仮象を付与し、読者をすばやく物語内に引き込むか、ということにありったけの技倆を傾注してきた。この枠組みの偶然性の問題は、リアリズム以降の芸術である写真や映画にも共通したもので、写真史や映画史は、この問題を解決するためのテクニックの開発史でもある。アルパースはルネサンス的な「窓」の絵画に対して、オランダ絵画が地図に近づくことにこだわっているが、これは小説での話者の消去(隠蔽)に対応していると考えられる。しかし、それによってトドロフが指摘した知覚の主体が要請されるといった事態がかわるわけではない。アルパースによれば、ケプラーは視覚像を、外界のイメージそのままではなく、眼球による光学的変換を経た上で、われわれの意識に与えられたものだとした。つまり、やはり意識が不可欠なのだ。たとえばストア派にあって、イメージは物質の薄い皮膜がそのまま眼球に到達したものだったが、ケプラーは「眼の外側にある世界のイメージ(かつては「形象[イドラ]」、すなわち「眼に見えるもの」と呼ばれていた)」と、「網膜に映し出された世界の絵」とをはじめて明確に区別した。イメージは物質の曖昧な分身であることをやめて、外界と明確に分離される。しかしそれはまた、イメージが対象と厳密な対応関係を、あるいは函数関係を結んだということだった。言語に関していえば、言語/イメージは主張や命令としてよりも、指示、描写としての性格を全面に押し出すことになるのである。この知覚、あるいは知覚の座としての意識というものは、つねにある特定の時間と空間の上の一点に位置づけられざるをえない。ここからふたつの帰結が生まれてくる。まず第一に現前性の問題。第二に、作品の内部における「現在時」と、読者がそれを読んでいる「今」とはどのように関係づけられるのか、というものである。(つづく)