黒澤明『悪い奴ほどよく眠る』

軽い気持ちで観出したのだが、すっかり夢中になってしまった。クロサワが世界の巨匠であるのは建前上否定はしないにせよ、日本のシネフィルや研究者のあいだで黒澤は敬して遠ざけられているような印象があるのだが実際はどうなのだろうか。確かにこの映画でもギュンギュン唸っている黒澤節、つまり大上段の社会正義や、役者たちの滑稽なくらいの熱演は、いかにも暑苦しいし、田舎くさい。だけどそれでも、いやそれだからこそ圧倒的にすばらしい。ところで映画の後半になると、それまで隠蔽されてきた焼け跡の記憶が不意に剥き出しになるところがある。三船敏郎の復讐心の根や、友人との謎めいた関係には、その戦後直後の風景があるのだとわかる。実はこの構造は、同時代のいわゆる「社会派ミステリー」に共通するものだ。松本清張の『砂の器』(1961)や水上勉の『飢餓海峡』(1963)を思い出してみるといい。そこでは、成功した主人公が戦後混乱期に犯した罪が蘇ろうとするときに犯罪が犯される。コナン・ドイルの作品でつねにそうだったように、五十年代も半ばを過ぎた現在、戦後混乱期は血が富と引き換えにされた原蓄過程であり、安定した今を脅かす暗い秘密なのだ。『酔いどれ天使』(48)や『野良犬』(49)では闇市や荒廃した都市を物語の舞台とした黒澤は、60年のこの映画では焼け跡にまで遡り、そこから現在の繁栄に怒りを向けている感がある。事件の発端が、近代的な新庁舎の新築にあったというのはいかにも象徴的だ。あるいは悪役の公団副総裁の出自を想像してみてもいい。彼が岸信介に代表されるような、戦後に復活した経済官僚の一人だと推測するのはいかにも無理がない(そういえば、彼の邸宅の室内調度やバーベキューの光景から感じられるのは、戦後というより戦前のブルジョワジーの西洋趣味ではないか)。戦後の記憶の抑圧の上に支配を確立した三つの権力、官僚、企業、マスコミに焼跡派が敗れ去る物語だといえそうだ。