「週刊読書人」文芸時評1月

これから不定期に、昨年1年間「週刊読書人」に連載した文芸時評をアップしていこうと思う。といってももちろん、自分の書いたものがいつまでもネットに晒しておくほど価値のあるものだと自惚れているわけでは毛頭ない。時評は時評らしく、一瞬人の目に触れて消滅していくのが潔いのかもしれない。それでもアップしようと考えたのは、現在の日本の文芸を巡る状況があまりにひどすぎると思うからだ。とくに、一部のエンタメ系や人気作家を除いては、具体的な作品についての周辺情報というものが今のメディアにはほとんど存在しない。そのため、業界関係者やよほどのマニアでないかぎり、現在どのような作家がいて、どのような傾向の作品を書いているのか、ということはわからない。たとえば僕たちは映画を見るときに、まったく予備知識を持たないということは稀だろう(映画館の看板を見てふらりと入るというようなケースはそれほど多くない)。ネット、CM、予告編、雑誌記事などで、たいてい何らかの予断を形成し、そこから見るべきかどうかを判断して行動に移る。そこで内容に関する情報がどれほど的確で、正当なものであるかはそれほど重要ではない。「これは見る必要ないな」とか「わりと自分の好きなタイプかも」などと判断を下すためのきっかけになれば充分なのであり、そのためには簡便で断片的であった方がいいくらいだ。しかしとりわけ純文学のジャンルでは、メディアがそうした情報を与えることはない。いうまでもなくマーケットがあまりに脆弱で、周辺情報を供給する余力がないからだ。そして、もちろん口コミも機能していない。そのため、無名で作品もなかなか本にならないような作家たちは、自分の書いたものが誰に読まれ、どう評価されているのかわからないという空漠感に悩まされているのではないかと思う。確かに、本当に優れた作家であれば、やがて必ず認知される、という考え方もあるだろう(僕がこの連載で絶賛した二人の作家は立て続けに芥川賞をとった)。だが図抜けた作家だけが作家ではあるまい。傑作ではないにせよ、忘れ難い作品というものもあるのだ。僕が望んでいるのは、同時代の文学作品についての個人発のレビューが増えていくことである。僕の感じでは、ネットで見られるのはまだほとんど「話題の」作家に関するものに過ぎない。当然このブログに掲載したところでどれほどの人が見るわけでもないが、幾つかのほぼ100%忘れ去られているに違いない作品の名前を記しておくだけでも意味はあると思う。以上が、過去の文章をアップするにあたっての弁明である。それから、テクストは校正が入る前のものなので、多少掲載誌に発表されたものとは異なっている。

去るもの、継ぐもの、破壊するもの
倉数茂
 世界的に成功した建築家が、アメリカから、療養中の作家のもとに帰ってくる。二人きりの場で建築家はいう。「いまウラジミールと清清の仲間たちが東京にやって来れば、とくにどの超高層ビル群が目に入るか、歴然としている。それらを設計した建築家集団や、施行した技術家集団について、おれは情報を持っている。(・・・)どの部分に、どれだけの爆発物を仕掛ければ、なにより超現代建築がこそがいかにウ゛ァルネラブルなものであるか? それはさして難しい計算問題じゃない」。
 大江健三郎というmaestro──むしろ私はmonsterと呼びたい──は、つねに何ものかを〈継ぐ〉作家だった。過去の作品ではダンテやブレイクといった代父たちが召還され、しかし大いなる文化遺産といった範疇に収まらない異形の相貌で、大江のテクストのなかで蘇った。新作『むしろ老人の愚行が聞きたい』(長編『さようなら、私の本よ!』の第一部だという)でも、小石のように投げ込まれたエリオットの詩句が、ゴツゴツとした存在感で作品を支えている。むろんのこと大江は自他ともに認める「戦後民主主義」の継承者でもある。しかしながら、近年の大江は自らの最期を意識して、後になにを残せるかを問うているかのようだった。それは作中の老作家古義人(『取り替え子(チェンジリング)』以来おなじみの人物だ)の感慨でもある。すなわち過去を引き継ぐばかりでなく、後の世代に遺贈すること。だがその彼に向かって、幼馴染みでもある世界的建築家は、国際的テロ組織への助力を求める。古義人もその依頼を無下には断らない。どうやら〈継承〉の主題にうち重なるようにして、切断と破壊への欲望が噴き上がっているらしいのだ。
 『群像』で大江の隣に掲載された若手の実力派、星野智幸の『在日ヲロシヤ人の悲劇』でも、継承と破壊というテーマが伏在しているようにみえる。いや、単なる破壊というよりは自己抹消、消滅といった方がいいか。確かに昨年発表された傑作『ロンリー・ハーツ・キラー』でも自己の消去は重要なモチーフになっていた。だが『ロンリー・ハーツ・キラー』を魅惑的なものにしていたタナトスの甘美さはすでにない。かわって全編を覆うのは、現在の日本にそのまま通底するような圧倒的な息苦しさである。
 舞台は近未来。日本はアナメリカの指示に従って露連邦に「テロ撲滅」の大義を掲げて出兵し、国内はナショナリズムシニシズムの大波に覆われる。リベラルな個人主義者を自認していた憲三の息子、純は、一人右翼として街頭演説を続け、娘の好美は在日ヲロシヤ人の組織と反戦運動に加わる。別れた妻はすでに自殺。そこへ、ハンストをしていた好美が何ものかに殺害されたとの報が入る。
 あまりに時事的であまりに通俗的? その通り。星野は類型化を怖れず、現代社会の大衆感情のマッピングを行う。それがほとんど戯画のように見えるとしたら、私たちの暮らす社会がそこまで通俗化してしまったからに他ならない。拡大する中国経済圏への不安、日本がアメリカの属国でしかないことへの苛立ち、ロシアの独裁制の薄気味悪さ、そうしたほとんど紋切り型でありながらリアルな感情の根を抽出し、精妙な機械のように組み合わせて物語を駆動させるのが彼のやり方だ。しかし政治劇として始まった物語は、後半渦を巻くようにファミリーロマンスへ収斂する。ファミリーロマンスと呼ぶのは、これがフロイトが記述したように、目の前の父母の姿を否定して〈本当〉の起源を求める子供たちの夢の軌跡だからだ。だがそれは前半以上に希望がない。各自の信念で行動していたかに見えた人物たちは、実は最初から意志の空虚に蝕まれていたことが判明する。憲三は、娘の骨壺を開いて灰をなめる。純は、自分には死んだ母親の「御霊」がのりうつって右翼たらしめているのだと考える。彼らは自分が空っぽであるからこそ、死者たちを憑依させ継ぐことができるのだと主張する。だが本当にそう信じているのだろうか? 去っていったものがすでに「質の悪い孫コピー」でしかなく、自分はさらにそのコピーだと自覚しているのに。結局最後に浮かび上がるのは、好美のこの世界に何の痕跡も残すことなく消え去ってしまいたいという欲望である。「まともな頭してたら自分で終わらせたいと思うんじゃないの? 違う?」
 世代を隔てた老作家と若手とが、奇妙にも同時に似たようなモチーフを書き付けてしまったという事実は興味深い。すなわち継承の可能性と不可能性。さしあたりここで問われているのが、私たちが生きてきた「戦後」の総体──まちがいなくそれは無惨にも崩壊しつつある──をどのように見送ったらいいのか、という問題であるのだと述べても的外れにはならないだろう。この〈父母〉の国をどう継ぐべきなのか? だがそうした歴史の転変を垂直に無化する圧倒的な暴力としてあの911の幻影が一瞬でも呼び出され、その自らの心の動きに慄然とする──二人の作家が、こうした経験を秘かに抱えているのだとしたら・・・。読者は、自分とは関わりがないことだとして笑いとばせるだろうか。
 他の作品では、笙野頼子『一、二、三、死、今日を生きよう!』(『すばる』)の、明晰にチューニングされた狂気とでもいうべきものの強度と、平出隆『緑の光』(『新潮』)の日本語の端正さが印象に残った。<<