樋口一葉『にごりえ』

来週の授業のために、樋口一葉にごりえ』を読む。一葉を手にとったのは十数年ぶりだろうと思う。二十歳前後のころ(たぶん)に読んで、「うーん、わかんない」と思ったきりだったのではないか。場所柄、日本文学のスタッフが充分おらず(というか、ネイティウ゛は僕一人)で、準備のためいろんな作品を読むことになる。その結果、今更「平家物語」のおもしろさに気づくとか、そういう情けないことがたくさんある。これまた無知と無学を晒すだけだが、一葉も、やはりすばらしかった。そういうわけで、以下は無学者の放言。
一葉には、よくできた映画を見るときのような、こちらが受け身のまま物語に巻き込まれ、自然に結末まで運ばれていく快感がある。読み手は、鮮やかな情景に身を任せ、その声の響きに耳を澄ますだけでいい。大げさにいえば、こちらの主体が解体され、複数の語りに溶け込んでしまうような感覚があるのだ。これは、明らかに一葉以降の作品とは違う。言文一致以降の小説には、こちらが積極的にイメージなり光景なりを構成していく、という〈労働〉の感覚がどこかにある(それが悪いというわけではないけれど)。一般的にいえば、知らない語彙や意味は通じてもニュアンスまではつかめない表現などが多数あり、決して読みやすいわけではない。しかし慣れてしまえば、それらもわからないなりにすっと耳を通ってしまう。これは一葉の語りの匿名性と関わっていると思う。
よくいわれるように、一葉の作品では、誰が語っているのわからない、ということがある。たとえば『にごりえ』の冒頭は、私娼宿の女が客をひく言葉が数行にわたってつづくところから始まるのだが、その言葉はなだらかに地の文へつらなっている。これはつまり、作品空間を成立させる言葉(メタレベル)とその空間内の事象(オブジェクトレベル)が同一平面に収まってしまうことを示す。しかしこれだけなら、谷崎から金井美恵子までしばしば使われてきた手法だろう。一葉の場合、さらに地の文のなかに複数の言葉が、具体的には「世間」でのうわさ話のようなものが浸透している印象を受ける。近代的な語りでは、たとえそれが三人称客観描写(いわゆる「神の視点」)であっても、そこに何らかの単一の話者の存在が感知されてしまう。あるいは何らかの視点人物をとった場合でも、視点の転換が強い切れ目として感じられてしまうことからも明らかな通り、近代の散文は基本的に単一の発話者/眼差しに統御されてしまう(同時に複数の視点をとることはできない)。それに対し、一葉の場合、近世に蓄積されてきたレトリックの流入によって、その言葉は一回的な発話というより、反復され流通してきた発話という相を帯びる(しかし、一葉を単に近世的ということもできないのであって、近世的な言葉と近代とあいだの揺らぎにこそ彼女の魅力がある、といった方が正確かもしれない)。この発話者の複数性は、ちょうど映画の客観ショットのように、読者が話者へと同一化することなく、言葉が目の前を流れていくことを可能にする。*1(つづく)

*1:ただし、『にごりえ』一編のなかにも、読者と話者の距離には伸縮がある。お力が家を飛び出す場面の、彼女の長い心内語の羅列の部分などには、強い没入を誘う力がある。