樋口一葉『にごりえ』(昨日のつづき)

例えば、すが秀実は、言文一致という言語的な革命において目指されていたのは、作品の内容が読者の前にありありと現れるという意味での「現前性」であったのだと述べる。*1すがは、韻文ではそれが非意味的な情動(=ポエジー)として、散文では物語内容として「現前」するという。

小説−散文が目指す、物語内容(意味)の現前性とは、言語が形式として意識されないような透明性を志向しているということである。逍遥が小説を「無韻の詩」と規定したのは、そのことを指している。そこでは、散文が単純に非韻律的であるという前提は疑われていない。逍遥にとって、彼がそのことを実践しえたかどうかは問わず、小説における「詩(ポエジー)」の保証たる現前性とは、決して韻律的なものではなく、あくまで,物語内容や意味の現前性なのである。ところが、詩的フォルマリスムは、意味を破棄することによって、韻律の情動的現前性を志向する側面を持つから、不透明であることで形式を形式として意識させるような言語が使用されなければならないだろう。(『日本近代文学の〈誕生〉』p235)*2

近代小説の散文は、媒介(メディウム=メディア)の排除に成功する度合いが高ければ高いほど、〈真実〉に接近できる、という信憑によって成り立っている、といえるだろう(もちろんこれは「実験室」からあらゆる干渉要因を取り除くという、近代科学の方法論と重なりあっている)。だがこの信憑は、作品が言葉による媒介そのものに他ならない、という事実によって、最初からフィクションであるしかない。だからこそ言語の透明性は、作者と読者がいわば合意の上で、この虚構性を隠蔽するところから要請されるものだといえる。この言文一致以降のリアリズムが理想のモデルとするのは、媒介なしに、直接(この目で)〈見る〉──純粋な「知覚」であり、「経験」*3──というものだが、今となってみればこれ自体、視覚という人間の生理学的なメディウムに依拠している、という指摘を逃れることはできない。現在では一般的に、メディア以前の直接的な「リアリティ」というものは信じられていない。意識も含め媒介されているからには、問題は、複数のメディア、複数のフレームからどれを選択するのか、ということになる。つまり、現代文学が前提としてきた、話者とフレームの一対一対応というものが地盤沈下してしまっているわけで、現在の文学の問題は──あるいはそこで行われている実験──は、多くここに起因することになるだろう。ところで、うわさ話というのは、もともと匿名の多数によって媒介されているものであって*4、はじめから「真実」との一致は重視されていない。うわさで重要なのは、内容自体の強度(刺激的であるかどうか)、接続可能性と変形可能性といったもので、だからこそ噂は噂を呼び、増殖していく。つまりそれは言及対象との一致(真実性・事実性)ばかりでなく、水平方向への伝播可能性から活力を得ている。
樋口一葉の文章は、こうした「世間」的な言葉を浸透させることによって、真実性・現前性を目指す体制からは解放されている。それは単一の真実ではなく、複数のリアリティを表現する、といえるように思う。*5

*1:イアン・ワットの場合は、彼がリチャードソンの作品に見出した,読者が登場人物の意識に「没入」する効果として見出される。

*2:しかし、ここでのポイントは、「物語内容」という表現の曖昧さではないか。「物語内容」が現前するとはどのようなことなのか。

*3:言葉は(少なくともその起源に)特定の発話者を要求する。では、知覚はどうか。人称を欠いた知覚というものはありうるのだろうか。「リアリズム」の謎の鍵となるのは、この言葉と知覚のあいだの差異であるように思う。フィクションは、つねに知覚の模像であるほかはないのではないだろうか。とすれば、バークレーの、誰もいない森の中で倒れる樹木の音、という小話は、主体を欠いた純粋知覚の比喩であるように思えてくる。写真というメディアにおいて、知覚を非人称へと解き放とうとした試みについては以前に文章にしたことがある(http://goc.mint.aisnet.jp/exhibition/spiritual/kurakazu.html

*4:奇妙に響くだろうが、僕はこの点で一葉を読みながら岡田利規『三月の5日間』を想起した。岡田について絶賛される「生き生きとした口語表現」の印象というのは、実のところ「今風の」語彙やレトリックの問題ではあるまい。だいたい誰が口語の現在などを知ることなどができるというのか。岡田の表現がリアリティをもって感じられるとしたら、その語りが匿名性の水準に触れているからではないか。『三月の5日間』も、広義のリアリズムを巡っているとみなせる。この作品で描かれるのは、具体的な外部の出来事(戦争)が、メディアに媒介されて、どのような自分の「リアリティ」と関係を結ぶ(結ばない)かなのである。

*5:だが一葉が今現代的に見えるとしたら、それは現在の状況とかかわっている。たとえばサブカルチャーも、「本当らしさ」(真実性)への衝迫とは無縁である。サブカルチャーに属する作品は、主にそのジャンルの歴史内で蓄積されてきた流通済みのイメージの再構成によって生産されるからだ。これにより、受容者は効率的に作品を消費することができる。