を書くということ

これは言葉にしてしまえば、何をいまさらという程度の文学史的常識なのかもしれないと思うが、一応書いておく。平林たい子『砂漠の花』第一部を読んだ。たい子の文学的自叙伝である。そこで主人公の少女は、さまざまな経験をつみ、社会の諸相を「観察」することが、作家になるためにまっすぐに伸びた道であると信じている。これは、昭和初頭の下層社会/アナーキスト群像の地獄巡りがそのまま「文学」へと近づく教養小説となっていることからもわかるとおり、すでに大家となっている執筆当時(昭和35年)の作者の信念でもあるのだろう。気になったのは、このような信念がどのような歴史的地層に属するのか、ということである。いうまでもなく、現在自分の個人的遍歴を描くことが、そのまま普遍的主題たりうると信じる作家はきわめて少数だろう。昨日書いたように中村光夫は、明治期の作家たちは自分の個人的問題が直接社会的問題として受け入れられると無自覚に前提していたという。中村が明治期の作家というとき、それが誰を指すのかははっきりしない。たとえば漱石や二葉亭がそのような感覚を持っていたとはとても思えない。花袋や藤村などをイメージしていたのだろうか。中村は私小説の系譜を問題にしているのだろうが、僕はむしろ大正期以降、白樺派や広義のロマン派らの出現によって明確になったものではないかと思う。『砂漠の花』の少女は、ものを書くということが、社会の慣習的なコースからの逸脱「体験」と直接つながりのあるものだという揺ぎ無い確信を持っている。それは因習への挑戦、反封建的行動、社会正義への関心といったものと切り離せない。つまり、「文学」は純粋に美学的な問題でも、職人的な制作への没頭でもなく、倫理的な行為、新奇な経験への冒険なのだ。つねにスキャンダルに取り囲まれていた大杉栄や「青鞜」グループのことを思い出してもよい(『砂漠の花』は浅薄なスキャンダリズムのレベルにとどまっていた群小アナーキストへの批判の書でもあるが)。地方的環境の重圧、貧しさ、イエの桎梏といったものを背景に、文学はそれらへの反抗、輝かしく快楽的なアドヴェンチャーとして憧憬される。総体としてそれは近代的自我の「実験場」として受け止められていたのだと思う。その意味で作家・知識人たちはモデルでありスターであった。そこから体験の記録としての文学という発想が受け入れられていくのだろう。近代的自我の実験場という性格は、さまざまなヴァリエーションをもってそれこそ二葉亭から戦後派まで??たとえば小林秀雄の場合を考えよ??の文学を規定していくものだと思うが、それがもっとも明瞭なかたちで意識されたのが、大正後期から昭和初頭であったかもしれない。いわゆる私小説の興隆はその一部をなすだろうし、プロレタリア文学があれほど短期間に大きな影響力をもつようになったのは、個人的・性的な冒険という観念が崩壊しつつあったことを示すだろう。さて、そうすると問題はそのような構造が、いつ頃どのような経緯で消滅し、その後、社会の総体に向けられる違和、怒り、抵抗の感情はどのようなポジションによって代位されているのか、ということなのだが。