「方法論的総合」

平野謙は『近代文学評論体系7』の「総説」で、昭和五年を絶頂とする「いわゆる三派鼎立的状況」が、昭和七年から十年にかけてひとつのサイクルを終えた、と状況の分析をしている。もちろんそれは、プロレタリア文学の沈降のせいだ。平野は、福田清人川端康成から聞いたという「これからの新人はプロレタリア文学か、大衆文学の陣営に属さなければとても文壇で飯をくうことはできませんね」という挨拶をひいて、昭和五年頃の雰囲気を説明するのだが、その頃にあったプロレタリア文学ブルジョア文学か、新興文学か既成文学か、純文学か通俗小説か、というような「あれかこれか」の対立軸が、昭和七年頃から成り立たなくなるというわけだ。その代表的な事例(要因?)が、プロレタリア文学私小説の方法的な癒着である転向小説であり、その状況の変化を受けて書かれたのが、横光利一の「純粋小説論」であり、小林秀雄の「私小説論」だということになる。ここで少し気になったのが、平野が高見順の『故旧忘れ得べき』を、転向小説のメソッド(プロレタリア+私小説)を意識化しようとした作品だと述べていることだった。以前僕は高見順にも触れつつ、昭和十年頃ある種の「方法論的爆発」があったのではないかと書いたけれど、それは同時に「方法論的総合」でもあったといった方がいいかもしれない。もちろん、選択よりも総合を志向するところから、イロニーの意識が生まれる。一方、若き中村光夫は「私小説論」よりも早く「我國のプロレタリア文學は文學のブルヂョア化(近代化)運動の表はれであつた」と書いている(「その文学史的意義 ─プロレタリア文學運動」『近代文学評論体系7』)。*1中村は、明治期の作家たちが自己と社会の乖離を意識することがなく──「己れの姿を素朴に描き出し、それが無条件で社会の興味をひくと作家が確信する」──*2,それがやがて私小説へと落ち込んでいくのに対し、プロレタリア文学は社会と個人のあいだの亀裂を明らかにすることで、文学が近代的であるための道を指し示したのだ*3、ということになる。しかしこれは言い方を換えれば、プロレタリア文学は文学が自律した主体ではなく、社会的コンテクストに従属することを示したということになろう。それはむしろ、「前近代」ないし「脱近代」であるだろう。

*1:平野はこの評論をすでに「私小説論」とつなげて論じているらしいが未読

*2:しかしこういう言い方は、よくいわれる「明治の健康なナショナリズム」という表現を思い出させる

*3:「素朴文芸」と「情感文芸」?