『純粋理性批判』3.2

「我々の一切の表象は、悟性によって実際になんらかの客観に関係せしめられる」。これはつまり、円錐形を直観するとき、私たちはつねにその色までも想像してしまうということだろう。数学においてはその色(具体的な直観像)は不必要なのだが、実際には数学者ですら、仕事をするときは何らかの直観像の助けをかりているに違いない。すると、像(イメージ)というのは、この私たちが直観をいつでも客観性(実在性)に結びつけてしまうという傾向性から生まれてくるものに違いない。ただし、だからといってそれが実在しているとは限らない(むしろ、その非実在が意識されているときイメージと呼ばれる)。その像が、(像である以上、実在性と関係づけられているのだが)現実に実在しているかどうかは、その像それ自体ではなく、他の表象との関係によって判断される。たとえば、今眼の前にあるコップ(の像)が実在するか否かは、それがスクリーンの中にあるのか、実際の机の上にあるかによって決められる。
ここでもうひとつ敷衍してみよう。すなわち、像を頭の中だけで意識するのではなく、何らかの物質との関わりで直観する場合。例えば、絵を見ながら、あるいはテクストを読みながら、イメージを認識する場合。このとき、物質はイメージを触発するのであっても、像そのものではない。あるいは像の模倣、図ではない。これは具象抽象とはかかわりないはずだ。あるのは絵具の塊や文字の羅列といった端的な物質であって、だからこそほとんど意識的な努力によって、像を立上がらせなければならない。このとき、物質は一義的に像の姿を指示するわけではないから、像はたえず揺れ動き、流動するものになる。複数の異なる像が同時に生起し、抗争しあう、といったらいいか。「構想力の自由な戯れ」、シラーのいう「遊戯衝動」はこのプロセスに内在するものだろう。これは通常の感官によって外界を知覚する経験とは異なっている。通常の経験では、像(現象)の抗争は抑制されなければならない(コップがたえず違うものに見えるようでは困る)。ではなぜそのような違いが生まれるのか? 芸術というのは知覚の抗争状態を惹起するものだとはいえるだろうが、この差異を芸術家の意図に還元するわけにもいくまい。メディウムの役割というのはここにあるのだろう。通常の知覚も、芸術も、現象(像)を触発するのは物質に違いはないが、メディウムは特殊な役割をもった物質である。*1

*1:高校のとき、凄く頭のいい先輩がいて、脳と脳とを直接電極でつないで、知覚やイメージを直接転送することができたら、そこで芸術は成り立つか、と考えていたことを思い出す。彼の考えでは、物質が介在することによる劣化や歪みが、芸術には必要なのだった。