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カントと「心身問題」

カントを、主客二元論者としてみることは誤りだと思う。たとえば、彼はいわゆる「心身問題」を問題ではないと一蹴する。「心身問題」というのは、私たちの精神と、身体との構造的な対応、つまり、自分が手を挙げようと思ったときに、どうして手が挙がるのか…

『純粋理性批判』4.1

『純粋理性批判』第一版の「先験的方法論」(岩波文庫では付録2)は、〈私〉=主体に関する四つの誤謬推理を扱っている。その第二の誤謬推理は、〈私〉は「単純」なもの、つまりバラバラの断片ではなく、ひとつの統合された全体であるという観念を巡るもの…

『純粋理性批判』3.2

「我々の一切の表象は、悟性によって実際になんらかの客観に関係せしめられる」。これはつまり、円錐形を直観するとき、私たちはつねにその色までも想像してしまうということだろう。数学においてはその色(具体的な直観像)は不必要なのだが、実際には数学…

『純粋理性批判』3.1

「何ひとといえども実在性という概念に対応する直観を、経験以外に求めることは不可能である、つまりア・プリオリに自分自身のうちから得るわけにはいかない、従ってまたかかる経験的意識よりも前に実在性を意識することはできない。我々は、経験をまったく…

純粋理性批判2

カントは「自由」の存在可能性を論じる部分で、「現象」には二種類の原因性(因果関係)が考えられなければならないという。ひとつは、感覚界において知覚される原因性であり、もうひとつは、それが「現象」である以上想定される「物自体」による原因である…

カント『純粋理性批判』

先週からぽつりぽつりとカントの『純粋理性批判』を読んでいる。何かの待ち時間に一ページだけといったペースなので、読了はおぼつかないが*1,それでもときどきはっとするような文章にあう。たとえば、カントは「経験の対象」(現象)は、経験においてのみ与…

見ることと語ること

とりあえず断片的な思いつきだけ。たぶん馬鹿なことを書くと思う。 私たちは、言葉が対象を「描写」するということに慣れてしまっている。しかし、「描写」とは何を意味するのか? むしろ、次のように述べた方が適切ではないのか。「もし、言表が対象を持つ…

私は死んだ日を忘れていたい

田中純の論考(「「英霊」の政治神学」InterCommunication55)を読んでいて、非常に印象的な表現にであった。田中純が橋川文三の本の中から引用しているもので、『きけわだつみのこえ』に収録されている遺書の一部である。(橋川文三「テロリズム信仰の精神…