『純粋理性批判』3.1

「何ひとといえども実在性という概念に対応する直観を、経験以外に求めることは不可能である、つまりア・プリオリに自分自身のうちから得るわけにはいかない、従ってまたかかる経験的意識よりも前に実在性を意識することはできない。我々は、経験をまったく援用しなくても円錐形をその概念に従って直観することはできる、しかしその円錐形の色は、なんらかの経験によって前もって与えられていなければならない。」これをカントは、数学は「量」を対象とするが、哲学は「質」を問題とするのだと述べている。たとえば、コンセプチュアル・アートに対する一般的な反感は、それが色彩や形態といった「経験」に基づく感覚を排除して、純粋な概念による演繹となってしまっているという印象(その解釈が適当かどうかは別にして)によるものだろう。
しかし、このカントの一節は、フィクションと知覚の関係を考える上で示唆的であるように思われる。つまりフィクションも、経験から「質」を借用している「実在性という概念に対応する直観」なのだが、同時に実在性に帰属しないことが意識されている、ということになろう。ところで、ここの「直観」という語は、ほとんど「言語」と置き換え可能であるように思われてくる。なぜなら、おおむね言語というのは、実在性に対応する必要があると思われているからである(もしこの世界にフライパンが存在しなければ、「フライパン」というのは無意味な音でしかない)。しかし、それはおおむねでしかなく、言語には数学言語や論理記号のような、実在性に対応する必要のないものも存在する。数学は「総じて現実的存在を問題にしないのである。つまり数学においては、対象自体の性質が対象の概念と結びついている限りにおいてのみ、かかる性質だけが問題になるのである」。数学では言語内での無矛盾性が確保されれば、対象の存在は重要ではない。*1
さて、詩の拡張の歴史において、詩はこれまでにさまざまな形式の言語をとりこんできた。たとえば、直接外的な対象を指示しない記号であっても、詩の一部に使用されることはまれではない(ダダイズム)。ゆえにイメージを持たない詩というものもありうる。では、次のような問いが考えられるだろう。数学言語や論理記号を使って詩を構成できるだろうか? 換言すれば、そのような詩に私たちは(いつか)ポエジーを認めることができるだろうか? 少なくとも現在それが不可能だと感じられるなら、その理由は何か? それが量だけで質を欠いているからか? 完全に一義的に確定できてしまうからか?

*1:ここからもうひとつの問題が生まれてくる。すなわち、数学が、なぜしばしば現実の現象と一致するのか、という問題が。