黒澤明『我が青春に悔いなし』

いろんな意味でおもしろすぎる怪作という印象。タイトルとパッケージから軽い青春喜劇かと思ったらとんでもない。滝川事件(京大事件)を背景に、三十年代のファッショ化の流れに翻弄される女性の姿を描く。ヒロインの恋人のモデルは、まちがいなく尾崎秀実。まず原節子が、ニューロティックなモダンガールを演じているのにびっくり。泣いたり、錯乱したり、放心したりとヒステリックなシーンがほとんどで、トレードマークのあの神々しいような笑みはほとんどみられない。そして逆境の中で愛を貫く崇高なヒロインに共感するというより、そのファナティックな雰囲気におそれをなしてしまうのは僕だけだろうか。そこに、三十年代の神経症的な雰囲気に由来する人物像をよみとってしまうのは僕の勘ぐり過ぎだとしても、全体に「戦後」的というよりは戦前の情動・スタイルが流れ込んでいるように思う。
1946年、黒澤の敗戦後第一作ということで、戦前的なスタイルが引き継がれているのは当然かもしれないのだが、主張においては明白にファッショ批判、「民主主義」賛美なわけで、何かそのズレのようなものがかえって印象に焼き付くのだ。逆に、戦後映画のチャンピオンである黒澤が、「戦後民主主義」とどのように出会い、消化(変形)していったのか、その出発点を考える意味でも興味深い作品だと思う。実は、ストーリーも滅茶苦茶に分断されている。そして話法においても、ほとんど多様な映像スタイルの寄せ集めといったものになっている。特に、ヒロインの恋愛は相手の獄死によって途中で断たれてしまい、ラスト二十分ほどは明らかにそれ以前とつながらない。僕は戦前のプロバガンダ映画をほとんど見たことがないのでわからないのだけど、ここには、その時期の労働賛美、農村賛美の風潮のもとに形成されたスタイルが見てとれるのではないだろうか?*1少なくとも三十年代から四十年代にかけて興隆した農村文学、報道文学との説話的同形性を認識することはできそうだし、傾向映画、また国外の左派・右派の映画との関係も気になるところだ。
少なくとも、黒澤が真に「戦後」的なスタイルを確立するのはこの数年後、ということになりそうだ。それは同時代の状況の変化と密接な関わりがあるだろう。ところで、敗戦を告げる場面で「裁きの日/敗戦/そして自由の甦る日」という字幕が入るのだが、この「裁きの日」というのは具体的に何を指すのだろうか? やはり、「原爆」!? 

*1:詳しい方のご教示を待ちたい。