『純粋理性批判』4.1

純粋理性批判』第一版の「先験的方法論」(岩波文庫では付録2)は、〈私〉=主体に関する四つの誤謬推理を扱っている。その第二の誤謬推理は、〈私〉は「単純」なもの、つまりバラバラの断片ではなく、ひとつの統合された全体であるという観念を巡るものである。カントは、この誤謬が必然的な誤謬であると考える。なぜなら、「『私』の単純性」という概念は、およそいかなる思考にもすでに伴っているのであり、統覚の直接的な表現とみなすほかないからだ。実際には、〈私〉が統合されている、という考えは現実の経験によって保証されていない。しかし、「私は考える」という形式を通してしか、思考する存在者(考えるモノ)は、自分(と外界)を経験することはできないからである。

(「私が考える」という)この命題は、もちろん経験ではなくて統覚の形式に過ぎない。この形式は、いかなる経験にも例外なく付随していて、しかもつねに経験より前にある。

私が、『私』という表象によって常に主観の単なる論理的な絶対的単一性(単純性)を思い見るということだけは確実である、しかし私は、これによって私の主観の現実的な単純性を認識するわけにはいかない。

「私が考える」(つまりcogito)というのは、私たちにとって逃れがたい「形式」である。だが、私たちがこうした「形式」とともに存在しているのだとしても、「私は考える」イクォール「私が存在する」、すなわち必ず、我考える「故に」我あり、と結びつくわけではない。
たとえば次のように考えよう。私たちは物理的存在としてのコンピュータを、一台,二台、と数えることはできる。だから、目の前のコンピュータを一台であり、これが「一」という統合された全体だとみなすことができる(別に、分解可能であることは問題ではない)。では、今このコンピュータが行っている「計算」についてはどうか? その「計算」をプログラムやアルゴリズムに分解して、複数であるとみることも、それらが相互に関わりあっているなら一つであるとみなすことも、同様に可能だろう。また複数のコンピュータをつないで、計算を行う場合を考えれば、そもそもここにある「計算」が複数か単数かを決定するのは、観察者がどのような「数え方」を採用するかによる、ということが感得される。もちろん「計算行為」は存在している。しかし、それを一/多という問題設定に繰り込むのは、観察者である。観察者の関与を除外してしまえば、その「計算」が単数か複数か、と問うこと自体無意味である。コンピュータも何らかの計算=思考を行っているが、コンピュータは「私は考える」という主体の形式とは無縁だからである。
コンピュータは「考える」が、「私がある」ということではない。コンピュータの計算=思考は、主体に属さない思考だからである。「考える」は、「考えるというプロセスがある」ということだとしても、これは単なる同語反復に過ぎない*1「思考」の存在は、主体を保証しない。ただ単に、私たち人間が、「私は考える」以外の形式で思考できないということである。
だが、人間の場合でも、まずニューロンのネットワークで行われる何らかの計算が存在し、それが「私が考える」という統覚の形式(先見論的主体)によってとらえられ、そこから〈私〉という表象(経験的主体)が産出されると考えるのは妥当であるだろう。だとすれば、主体のhybridity、分裂、複数性を強調する議論は、実は経験的主体しか射程にとらえていないことになる。むしろ、「思考」のレベルにおいては、単一性ー多数性という対自体が機能していないのだ。問題とすべきは、それが数の体制のなかに入っていく、メカニズム、プロセスではないのか?

*1:また、「考えるというプロセス」は、そのプロセスを担う「物理的実体」を伴う、とはいえるかもしれない。しかし、これはあくまで経験から引き出された判断である。物理的実体を伴わない「思考」──霊のようなもの──がないかどうかは証明できない。もちろん、デカルトのcogitoは物理的実体ではない。