島木健作『生活の探求』(2)

駿介にとって、志村以上に手痛いのは、生活上の恩人であり、パターナリスティックな地主でもある上原の批判だろう。上原は、勉強をしたいという駿介のために色々と骨を折ってきた経緯があるにもかかわらず、学業をやめて農民として働きたちという駿介の希望を心情としては肯定する。上原は地域の名望家であり、農民たちの暮らしのために努力を重ねてきた男である。しかし、彼の一生の努力は結局何ほどの身も結んでいない。

今の農村に帰って来て、一部自作し、一部小作してかつがつ食うとる、お前の親の家さ帰って来て、お前は一体何をしようというんだ? そりゃ今からでも百姓仕事を覚えることは出来る。飯だけは食える。難儀はあっても、都会のサラリーマンよりは厭な思いせずと、食うて行くことはできよう。(略)お前にいい頭があり、勇気があり、いい方法があるとしてもお前一人の力ぢゃ何事も出来やしない。お前は果たして協力者を求めることが出来るか? お前はお前が帰って来て、そのなかに身をおいている農村というものがどんなものだか知っとるか? 知らんからこそ、それを知るために帰って来たんだと云うじゃろうが、それを知った時には、さきの日の夢も希望も失ったときでないとは云えんぞ。

上原は、駿介が農村を知らず、知ったとしても何ができるのか、という。彼は駿介の「求道」風の立場、つまり社会を変革しようなどと大それたことを企んでいるわけではなく、ただ、自分のためだけに自分のやまれぬ欲求に従いたいのだという立場の弱点を指摘する。彼が何を思おうと、結果としては平凡な力のない農民がひとり生まれるだけだ。それは社会的に何の意味も持たない。つまり、上原は駿介が結局心情倫理に従ってるに過ぎないというわけだ。
この上原との対話において、地主と小作の対立が問題にならないわけではない。が、上原自身は、二つの階級を融和させようとした良心的な地主として描かれている。上原は自分も徐々に没落しつつあるという。その要因としては、農村への資本制の浸透や社会の変化が挙げられる。地主による「搾取」でなく、社会の構造変動が農村を窮乏させているのであって、地主もその波から逃れられない。階級対立ばかりでなく、社会構造に問題を見出すこと。これは誤りでないにしろ、階級の問題を後景化する役割を果たす。
こののち、駿介は、農村の実際を知ることに力を費やす。季節の巡りに従って、農事、祭礼、年貢の徴収の様子などが詳細に描かれる。それらは今読んでも、戦前期の農村の記録として興味深い。少なくとも、農村文学の中で、これ以上農村の生産活動、社会関係を細かく冷静に記述したものはないだろう。駿介の眼差しは、謙虚で控えめではあるものの、基本的に近代主義的である。つまり、農村内の因習、慣行といったものにつまづき、それをどう合理化すべきか、と考える質のものである。たとえば、ほんの数人規模のささやかな祭礼に対して、同時代の民俗学が持っていたような、ノスタルジア、共感とは無縁である。
彼が見出すのは、農村の生産関係が要求する恊働であると同時に、そこで生まれる軋轢である。組織の問題、組合の硬直化、部落内部の格差、資源のうばいあい等々。この組織の再編成が、今後の彼の課題となるのだろう。
前編の最後で、旧習を破って駿介は、直接煙草の専売局にかけあうことで、部落全体に利益をもたらす。その役人の若く格式張らない様子などから考えても、うがって見れば、「革新官僚」的なものへのかすかなシンパシーを感じることができるかもしれない。「お上」とも協力して、農村の合理化、平等化を推進する、という方向性だ。
この作品を読んでいて感じたのは、内在的にこれを批判するのは困難だ、ということだ。観念的で、大掛かりな運動から離れて、生活に密着した運動を志す、という態度自体は否定されるべきものではない。実際そのようにしてさまざまな環境運動,地域運動などが生まれて来た。そしてそれらの課題はやはり切実なものなのだ。とすれば問題は、この作品自体がおかれた当時の言説空間上のポジション、役割ということになろう。