「芸術作品の根源」より

ハイデガーを読んでいて、次のようなフレーズにぶつかる。もちろんハイデガー的な形而上学的な深み(いかにもロマン派的な思わせぶりともいえる)はないものの、柳の述べていたことと、ハイデガーの道具論はほとんど重なるように思う。

この道具(農婦の労働靴)は大地[Erde]に帰属し、農婦の世界[Welt]の内で守られる。このような守られた帰属からこの道具そのものが生じ、それ自体の内にやすらう[Insichruhen]ようになるのである。/しかし、ひょっとするとこれら一切のことを、われわれはただ絵のなかの靴という道具からだけ見てとっているのかもしれない。それに対して農婦は単純に靴を履く。このように単純に履くことが、同様に単純であったらよいのだが。農婦が遅い夕べにはなはだしく、しかし健全に疲れて靴を脱ぎ、そしていまだ暗い夜明けにもうまたそれに手をのばす、あるいは祭りの日にそのかたわらを通り過ぎる、そのたびごとに、農婦は観察や考察なしにあの既述のこといっさいを知る。確かに、道具の道具存在はその有用性にある。しかし、有用性そのものは道具の本質的な存在の充実の内にやすらっている(以下略)

『芸術作品の根源』p38
つまり、ハイデガーは道具の道具性は、生活様式のなかに溶け込み、それと一致する(意識されない)ところにあるという。「世界と大地」は、道具によって意識化されない形で、「そこにある」(認識される=生きられる)。問題は、ハイデガーの場合、こうした生活(世界と大地)自体が美的なものとへと格上げされているところにある。
この直後彼はこう言う。すなわち、道具の「信頼性」(道具が対象化されることなく、生活の行為連関を接続し、世界を開示すること)が磨り減り、道具は「荒廃し」「単なる道具へ沈む」。

いまやわずかにむきだしの有用性だけが目立っているにすぎないのである。そのようなむきだしの有用性は、道具の根源は質量に形相を刻印する単なる製造にある[これは工場のイメージだろう]という見掛けを呼び覚ます。

  1. これをあえてハイデガーのモダン(デザイン)批判といってしまおう。どちらも「用の美」に基づいているにも関わらず、近代工業製品は、道具自体の有用性とその「美しさ」を前景化してしまう。さて、しかしハイデガーは今述べたこと(道具の道具性の見出し)が、現実の靴ではなく、ゴッホの絵画によってもたらされたのだとする。「ゴッホの絵画が語ったのである」。「むしろ、道具の道具存在は、作品によってはじめて、そして作品においてだけ、ことさらに輝き現れてくるのである」。

柳の場合もまさに、「作品」が作品自体として現れてくるのではなく、道具性を通してそれを使う人間の生活連関が、そして美的な世界が開示されると語ったのだった。ただし、道具と芸術を分離するハイデガーと違って、柳の場合さらにその作品自体が道具であるという仕掛けが施されている。そのため、道具が道具を、つまり世界が世界を、非自己同一的なものとして展開するという構造になっている。しかし、これは当然生産ー使用のオートノミー、あるいはオートポイエーシスの肯定にしか行きつかず、結局柳の理論は、資本の社会形成作用の批判のようでいて、その幻想的な昇華にしかなっていない。

  1. ハイデガーによれば、芸術の役割は「世界と大地」を開くことにある。非模写的な芸術としての神殿をとりあげて、彼はこう書いている。

神殿作品は、誕生と死、災難と天恵、勝利と屈辱、忍耐と頽廃─が、人間本質にとってその命運[Geschick]という形態を獲得するあの諸軌道と諸連関との統一をはじめて接合[Fugen]し、同時にその統一それ自体のまわりに収集する[sammeln]。これらの開いた諸連関を支配する広がりこそが、この歴史的な民族の世界である。この世界から、そしてこの世界の内で、この民族ははじめて自分自身へと立ち返り、彼らの使命を完遂するに至るのである。
(この後の数行がまさに先生絶好調という感じだが略)
出来しそして立ち現れることそれ自体を、しかも全体としてのそれを、ギリシア人たちは早初期にピュシスと名づけた。
p53

「諸軌道と諸連関との統一を」芸術作品が接合し、「諸連関を支配する広がりこそが」歴史的な「民族の世界」となる。その現れの運動が「ピュシス自然」と呼ばれる。これはやはり柳、あるいは棟方志功などと近いような気がする。「神殿作品は、そこに立ちながら、一つの世界を開示し、そしてその世界を大地の上へと立て返す」(p55)。
ハイデガーは、この存在の開示(不伏蔵性)を真理と呼び、「作品においては真理が活動している」と結論するのだが、この世界と大地が、一種本来性のユートピアであることは明らかだ。「世界はいつも非対象的なものであるが、誕生と死、祝福と神罰の軌道が、われわれを存在の内へと連れ去られるのをそのままにしておくかぎり、われわれはこの世界の支配下にある」(p58)。ハイデガーでは、作品は、存在が開示される特権的な場所──「美は真理が不伏蔵性としてその本質を発揮する一つの仕方」──になるわけだが、柳の場合は、作品がたえず反復=産出されていくこと自体が、存在の現れと同一視されるとでもいうか。(そのため、ハイデガーギリシャ神殿やヘルダーリンのような特権的な作品を持っているのに対し、柳は作品・作家の固有性を認めない)。

  • ハイデガーの本来的な世界は、現実の資本制社会への反動的な抗議ではあるだろう。が、大衆文化もまた「希望の原理」(ブロッホ)に依拠しているのだとしたら、その心性はむしろ現実社会のある種の裏面として(ベンヤミンが捉えようとしたように)広がっているといえる。
  • ハイデガーと柳の分岐が明らかになるのは、第三部「真理と芸術」だ。

彼はここで、芸術家がつくる、ことよりもむしろ、生み出すことを強調しつつ(例えばテクネーの意味は、技術というより、潜在的なものを現勢化することだとされる)、しかし、手仕事と芸術を画然とわける。

作品創作は決して手仕事的な働きではない。しかし、作品創作はつねに真理を形態の内に確立するという仕方で大地を用いることであり続ける。[この文脈では「大地」は素材に近い。]これに対して、道具を製造することは直接的には真理の生起の実現では断じてない。道具が仕上がっているということは、素材が形作られていることであり、しかも使用のための準備として形作られていることである。道具が仕上がっているということは、道具がそれ自体を超え出て、有用性の内に埋没することへと解放されることを意味するのである。(p98)

  • 有用性に埋没してしまう道具になかったもの、それは、「作品を生み出すことには「作品が存在するという事実」を差し出すことが含まれている」ということである。作品は「そのようなものとして存在する、というそのことが非日常的なこととなっている」。つまりこれはいわゆる異化作用だが、これにより作品は「世界と大地とに対する日常的な諸連関を変更」する。こうした文を見ていると、ハイデガーの芸術論が一次大戦以降の前衛芸術とも同期しているのだという感じになってくる。例えば、ダダの作品などは文字通り「作品が存在するという事実」を差し出すこと」に捧げられている。
  • ところで、ハイデガーは存在を開示する作品の中に、同時に「作品が存在するという衝撃」「不気味で途方もないもの」を見ている。柳に欠けているのは、まさにこの「不気味で途方もないもの」、つまり生成のアナーキーへの感性だろう。大地=物質の反乱の可能性であり、識域下に蠢くもの。プロレタリアートはそのようなものとして見出される。白樺派でそれを感受していたのは、有島武郎だけである。
  • 終り近くに、芸術作品の外的な「影響」の否定がある。「奇妙なことに、作品はどのような仕方であれ既存の存在するものに因果的な作用を関係によって影響を及ぼすことはないのである。作品の作用は影響ということには存しない。作品の作用は、作品から生起する、存在するものの不伏蔵性の変遷、換言すれば存在の変遷ということに存するのである」(p107)。この存在の変遷に関しては、しばらく後で、ギリシア、中世、近代のそれぞれで、「存在」の意味(理解?)がかわったとして簡単に触れられる。つまり、芸術の社会批判といった機能が否定されているのだろう。ここでも同時代の芸術が想起されているのではないか。