「ゲド戦記」

ところで、本屋でル・グウィンの『ゲド戦記』がソフトカバーになっているのを見て嬉しかった。モニターでは映画の予告編を流していたけど、ハイジみたいな昔の宮崎駿風の絵柄。見たいかどうかは微妙な感じ。でも、スタジオ・ジブリが『ゲド戦記』をとりあげるのは妙に納得がいく。
ゲド戦記』にはまったのは四年くらい前で、十分大人(おじさん)になってからだ。むしろ子供の頃は馴染めないものを感じていた。はまった理由は、『ゲド戦記』にある「本来性の感覚」のようなものを感じたからだと思う。きりがなくなるので詳しくは書かないけど、これは十九世紀の大小説が持っていたもの、おそらくはマンの『魔の山』やコンラッドの『ノストロモ』などを境に、現代小説では不可能になったものだ。これはルカーチのいう「叙事詩」、ブロッホのいう「希望の原理」に関わる。しかしこの「希望の原理」は二十世紀ではむしろ大衆文化の中に息づくことになる。『ゲド戦記』と宮崎駿の作品の共通点は、どちらもほとんどの小説や映画と言った凡百のハイ・アートを超える質を持ちながら、やはり大衆文化としかいいようがないことだ。これは単なるポピュラリティの問題ではなく、「作品」がどのように大衆の欲望と関わるのかということに関係している。