『不安型ナショナリズムの時代』

高原基彰『不安型ナショナリズムの時代 日韓中のネット世代が憎みあう本当の理由』を読む。
大枠において、著者の議論に同意することができると思う。著者の考えは、きわめて単純なふたつの認識を組み合わせたものだ。
1、現在ネットなどで見られる嫌韓、嫌中、いわゆる「右傾化」は、実のところ国家への共感、同一化の高まりを意味しない。
2、産業構造の変化による社会の流動化が、日本国内で既得権益層(年長世代)と階級下降層(若年世代)の対立(格差)を生み出している。
そして、この若年層の不安が、保守論壇──これはもともと年長世代を読者対象としたものなのだが──の言説を「趣味的に」いじることによって生み出されるのが嫌韓・嫌中ゲームなのだということになる。この議論の弱い点は、若年層の不満が向かう先が、なぜ国内問題でも反米でもなく、中国と韓国なのか、という部分がうまく説明できないことだろう。だが2については今や誰も否定できないだろうし、1もある留保をおいた上で、実状に即していると思う。ある留保というのは、個々人が国家主義的になっているわけではないにしても、その世論は国内政治に影響を及ぼし、ひいては国際関係にも響いていくだろうと考えるからだ。
僕自身つねづね、現在の右傾化というのは古典的ナショナリズムとはいえないのではないかと思っていた。まず我が身をふりかえっても、現在の二十代、三〇代が国家にシンパシーを感じる社会的条件は見当たらない。彼らは中間層の解体という潮流に直撃されている世代であり、また心情的には、固定した社会集団への従属を忌避する傾向が強い。戦後の六十年間は、国家に実存的に投機するという心情をほぼ完全に殲滅したと思っている。
第二に、ナショナリズムというのが国民国家内部での平等、豊かさを求める運動であるなら、その矛先はネオリべ政策を強行する政府に向けられるべきだろう。歴史的にも、ナショナリズムというのはある種の反体制運動として国民的結集を志向するものだ。しかし現在のネット右翼言説に、国民統合を目指す運動論的色彩は感じられない。これは、ネット上の右派的言辞が、ほとんど議論の体をなしてないこと、萌芽的にであれ、理論的あるいは詩的に日本国家の正統性や優越性を確証しようとする意志を欠いていることからもわかるだろう。つまりもともと相手を説得して自派陣営にとりこもうという意志などもっていないのだ。これは、戦前の右翼とは異なる点だと思う。実際ネットで好まれるのは罵倒であって、日本を賛美するための理論構築などは、むしろ場違いな作法として嘲笑されるのではないだろうか。
第三に、高原も欧米の移民排斥などが参照されるべきだと示唆しているが、ネット言説が単純な排外主義に見えることだ。そこにあるのは、日本を同質的な空間として閉鎖してしまいたいという欲望、外からごちゃごちゃいうな、ほっといてくれ、という叫びであるように思える。戦前のナショナリズム帝国主義と一体化しており、少なくとも形式的には異なる民族、文化を包摂し、同質化しようとしていた。現在あるのは、中国、韓国の伸張に対する恐怖感だけだろう。実は日本の現在の「右傾化」の特徴は、逆説的にも「外」に対する意識の希薄さではないかと思う。あるいは外への恐怖感だけは強いのかもしれないが、その言説は明らかに国内だけに向けられている。これは、戦後の大衆ナショナリズムから引き継いだ遺産かもしれない。しかし国民国家勃興期のナショナリズムというのは、反対に外国に直面し、その危機感をバネにするもの、例えばしばしばエリートである留学生などに指導されるものだ。明治維新や中国革命、植民地独立運動などを考えれば分るが、それは外国の技術、システムを積極的に移入し、かえって国際化を志向する。僕の学生の中国人院生は、ネット上で独立問題に関して台湾人と喧嘩しているといっていた。これも罵倒の応酬かもしれないが、少なくとも国外(?)を相手にしている。言葉の問題があるとはいえ、日本の嫌韓厨が直接韓国人と議論をしている様子は思い浮かべられない。
この高原の議論で参考になったのは、韓国、中国のそれぞれの「反日」の社会的背景を手際よく説明してくれたことだった。一見反日と見えるものは、むしろ国内の変動に由来する複数の潮流と関わりあっている。中国に関していえば、彼は中国に生まれた新たな中間層が、日本の高度成長期に見られた安定した階層ではなく、ポスト産業社会の特徴である過剰な流動化にさらされていると指摘している。中国では、古典的な貧富格差と、中間層内部での過剰流動性が同時に存在しているわけだ。これは僕の貧しい見聞からいっても首肯できる。僕が知っているのは、日本の専門学校生にあたるような中流下層の若者たちだが、彼らは「終身雇用」なんてまったく念頭にないに違いない。中国での中間層の創出は、日本のようにみんなが横並びで豊かになっていく、などというものではないのはその通りで、BMWと荷車を引いたボロボロのバイクが一緒に走っているのが中国だ。
ただ、結論部には幾つか疑問が残る。
高原は、結局本当に重要なのは歴史でも記憶でもなく、個人が痛切に感じているはずの経済的不安なのだというのだが、果たしてそのようにナショナリズムを経済問題に解消することができるのだろうか?  確かに、人々が何十年も前の歴史問題に熱中している(ようにみえる)ことへの違和感や、そこに自己欺瞞があるのではないかと感じることには共感できる。だが、彼のいう「経済的リアリズム」に皆が目覚めれば、国家の問題もなくなるのだろうか。それは、彼自身がとりあげている川勝平太らのアジアのライフスタイル一元論同様の、平板な議論であるように思える。川勝のいっていることは、個人の趣味と利害しか差異のないインターナショナルな世界が始まるという、高原の批判するポストモダン言説と同型なのだが。
ここでもかなり厳しくやっつけられているけど、歴史問題の噴出自体が、構造的変動による歴史的出来事なのだ。つまり必然性がある。彼は右派、左派の言説から距離をおこうとするあまり、いささか事態を単純化しすぎているのではないか。「国益というのは私益の集積としてある」ことを自覚し、そのために「国家を使いこなす」という提言は、もう無効であることが証明された、国家なんてしょせん想像の共同体なんだからさ、という言い方とかわりがないように思うのだ。