中国の「短い二十世紀」

shiku2006-02-25

一般に「中国革命」と呼ぶとき、それは1911年の辛亥革命にはじまり、49年の中華人民共和国建国で頂点を迎える一連の政治的・社会的変革を指す。一方今月の18日にお会いした汪暉氏は、1976年の文化大革命の終焉までをふくめて、中国における「短い二十世紀」という言い方をされていたのが印象的だった。いずれにせよ、数十年、数世代にわたってさまざまな曲折をはらみつつ進行する「革命」というものは、私たちに革命概念の変更を迫る。というのも、一般的な革命観というものが、フランス革命ロシア革命、すなわち都市蜂起による政権中枢の瞬時の奪取というモデルに強く規定されているからだろう(そしてこれは68年のラディカルズにとっても、基本的にかわらなかったように思う)。中国にあって革命は、歴史的諸条件のために、結果としてある種の「永久革命」の形態をとるにいたった。時間的にも,空間的にも、革命はある特権的な地点で発生し波及していくのではなく、複数の層、複数のエージェントが、競合と連合をない交ぜつつ、複雑な相互干渉を織りなしていく、異様に長大で流動的なプロセスとなった。アレントは、革命のフランス−ロシアモデルを批判するために,アメリカの独立革命という歴史的経験をフィーチャーしたわけだが、中国の経験はアレントの理論にも重大な異論を突きつけるものとなる。なぜならアレントもまた、ある特権的な瞬間に、共和国という権力が創設されると考える点において、単線的な発展史観を秘かに温存しているようにみえるからだ。しかし中国の場合、革命は点でもなければ線でもない。むしろ多様なファクターに駆動された複数の力が渦巻く流動平面なのだ。そのため(共産党の公式見解がどうであれ)ある歴史的頂点で革命が完成するという発展史観も、その裏返しの挫折史観も成立しない。たとえば、「中国革命」という概念自体がすでに、辛亥革命(民国革命)、国民革命(北伐)、建国、文化大革命といった複数の歴史的変革──しかし決して必然的な過程などではない──を接続・重層させており、戦争という巨大な出来事でさえ,革命という平面に書き込まれたものに過ぎないのだ*1あえて誤解を怖れずにいえば、中国の「反日」気運が、日本から侵略への執拗なこだわりとして見えるとき、そこに反映されているのは、むしろ日本がどれほど戦争にとらわれつづけてきたかである。日本の戦後社会が,良くも悪しくも、文字通り戦争を起点にしてしか歴史を構成できなかったのに対し、中国人の歴史意識にとって、戦争は部分であっても全体を規定するものではない。だがこのことは──困難にも──侵略の記憶が、歴史的アイデンティティの不可欠な一部となって、決して消去されるはずがないことを示す。日本にとって太平洋戦争が、黙示録的な破滅,トラウマとしてたえず幾つもの解釈を紡ぎだす痕跡のかたちで表象されざるをえないとするなら、中国でこの戦争は、全体の絵柄に埋め込まれたピースとして、そこのみを取り出すことはできないからだ。汪暉氏が述べたように、中国は70年代半ばに、革命の(一つの)サイクルを終えたのだということになるだろう。70年代末にすでに?小平の指示による資本主義コースは確定していた以上、中国は、ベルリンの壁崩壊にはるかに先駆けて、次のフェイズに乗り出していたといえるかもしれない。このことが、資本主義の最前線、「世界の工場」であるとともに、社会主義国家でもあるという中国の独特な地位を決定づけているように思われる。つまり、日本も含め各国が見舞われた脱冷戦のプロセスの中で、中国は微妙に異なるスタートを切ったのであり、そのため中国は、アメリカ中心のグローバリゼーションのもとで今も奇妙な異物でありつづけている。この中国で、「革命」という経験──それは他の旧共産圏のなかでもきわだって複雑で複合的なものだ──が、どのように変容し、またどのように生き続けていくのかは、今後の世界に大きな影響を及ぼすに違いない、とおもう。

*1:私たちは戦争を国家「間」の問題と考えることに慣れている。しかし、「国民党にとってこの戦争が国家防衛戦争であったのに対し」、毛沢東は戦争を革命のなかに位置づけ「広汎な大衆を立上がらせる社会変革なしには戦争に勝利しえないとして、戦争と革命を結びつける方針をとった」(岩波中国現代辞典)。