?平(kaipin)の塔楼

上のようなことを考えだしたきっかけのひとつに、?平という小さな町を訪れた時のことがある。?平というのは、広州から南西に100キロほどいったところにある。バスの窓から眺めていると、見慣れた中国の家並の向こうからニョキニョキと幾つもおかしなデコレーションを施した建物が見えてくる。放棄された薄汚れた廃墟のようにも、いまだに住居として使いつづけているようにも見える。とにかく、その様子がどうにも怪しく奇妙奇天烈で、すっかり夢中になってしまったのだった。  その後、観光地として整備されたその種の建物を見学することができ、そこでパンフレットも買うことができたのたが、それによると、奇怪な塔は、主に清末から民国期に建てられた、砦と住居(倉庫?)を兼ねたものなのだった。当時、この地域では、盗賊や宗族同士の争いといったものが絶えなかったらしい。そこで住民たちは自力で武装し、一族や村を守るために、銃眼や張り出しまで備えたこの中世の城ともトーチカとも見まがう建物をつくったのだという。つまり、ほとんど「七人の侍」の世界だが、もちろんこれだけではここまでの造形になるはずがない。実は、この地域は、当時世界中に散らばりだした華僑たちの出身地だった(もともと華僑には広東省人が多い)。彼らの中で成功したもの──といってもごく一部だろうが──は、故郷に送金する同時に、西洋の技術やデザインを導入する。また村の方でも、時間が経つにつれ、防禦一辺倒ではなく、いかに自分の経済力、先進性を見せつけるかという競争が始まる。なにしろ、これらの塔のほとんどは鉄筋コンクリート造り(当時は最新だったのではないか)であり、その鉄筋はわざわざ海外から輸入したものだという。その結果、七階から八階建て、壁の厚さが一メートルもあり、擬西洋風でありつつ中国伝統の装飾がふんだんにちりばめられた、重厚にしてユーモラスな建物ができあがったのだった。けれどこれらの建物を見ながら僕が感じていたのは、中国における近代化というものの一筋縄でのいかなさだった。僕たちは、辛亥革命というと、それだけで中国の近代国家へのプロセスがスタートしたのだと思ってしまう。北京や南京や上海でのみ物事が決まり、孫文や宋教仁の思想に基づいて歴史が動いていったのだと思ってしまう。しかし、二十世紀の初頭でありながら、農民たちが盗賊に抗して武装するというほとんど物語のような現実があり、そこには幾多の飢えや悲惨があっただろうと同時に、その同じ農民がグローバルなネットワークに所属し、豊かな経済的蓄積を誇っている、それは、僕たちの見慣れた「近代」とは何か別のものだ。だが、孫文毛沢東たちが依拠していたのは、まさにこうした地方の活力であり、自立性ではなかったのか。こうした印象は、辛亥革命についての記述を読むときのどこか曖昧でおかしな感覚(歴史がのたうちうねくりながら、一進一退しているという感覚)を少しだけ明確にしてくれるように思われた。中国では近代化は、一方通行の過程ではありえない。僕が感じたのは、日本のように小さく均質な国とはことなる、中国社会の広さと深さ、歴史の複雑さだった。