中野重治「鈴木・都山・八十島」

この作品で主人公田原は、ただどこまでも言葉を添削し、訂正するものとして書かれている。彼は獄中で目にする新聞論説の言葉遣いに苛立ち、看守鈴木が持ってくる詩と短歌を、ていねいに直してやる。後半は、予審判事が読み上げる調書の語句を訂正していく押し問答が延々続く。この部分はもう小説というより、テープレコーダーでも聞かされているようだ。田原は、ひたすら言葉の的確さに、その「記録」としての性格にこだわっているように見える。ここに、中野が芸術大衆化論争で主張していた「感情の組織化」という側面も、作品がその表現となる、プロレタリアートという主体もない。彼が詩を通して交流する鈴木は、プロレタリアートどころかその抑圧者(ただし、庶民ではあるだろう)だが、ここにプロレタリア文学にありがちな、定型的な敵対の表現はない。「芸術」(鈴木)のレベルでも、「政治」的闘争(八十島)のレベルでも、田原は語としての正確さ以外に関心を向けていないようであり、それこそがもっとも重要な闘いなのだと確信している。奇妙な感じを与える作品だが、中野の「転向」の位相を考える上では、注目しておく必要のあるものだと思う。