吉本隆明の言説戦略

昨日は大学院の授業で林芙美子『放浪記』を読んだ。小林秀雄ベンヤミンをサブテクストにして、大正末期から昭和初頭における、人々の経験が根こぎとなり、個人が解体していくさまを説明したのだが、話しながら少し気づいたことをできるだけ簡単に。林芙美子の魅力は彼女の二面性にあると思う。つまり、彼女はキャフェーの女給をしながらアナキズム詩人たちとつきあい、詩や童話を書いては雑誌社に持ち込むといった、まさに当時の都市の最先端風俗に身をしずめたモダンガールなのだが、同時に彼女のテクストから伝わってくるのは、地方の行商一家に育った垢抜けない少女の情緒なのだ。『放浪記』以降の林芙美子が流行作家でいつづけることができたのも、モダンな都市風景への感受性とともに、田舎者としての自己も手放さない彼女の姿が庶民の圧倒的な共感を得たからにほかならない。結果としてその根っからの庶民的性格は、彼女に戦争協力の道を歩ませることになるのだけど。ところで、このような近代化の波の呑み込まれつつ、同時に少しも変わらないという庶民の像は、吉本隆明の「大衆」なるイメージを想起させる。五十年代の吉本の主要敵は、圧倒的な威信を誇った共産党とそのシンパサイザー、および丸山真男などの中間的なリベラリストだった。しばしば引用され、そこだけ読むと厚顔な居直りとしか思えない「自立」についての有名なフレーズも*1前後をあわせて読めばそれほど無茶なことをいっているわけではない。虚像というのは国際共産主義アメリカ資本主義のことであり、彼は自分はマルクスレーニン主義も「米帝国主義」も信じねえよと啖呵を切っているだけのことだ。現在ではほとんど実感できない政治の重さ、すなわち共産党アメリカの世界戦略とが、暴力も含めた剥き出しの権威として黒々とした影を投げかけていた当時の文脈を勘案しなければ、そのニュアンスを掴むことは出来ないだろう。共産党の権威をひき倒すにあたって彼が行ったのは、共産主義の「人民」という政治概念を、「大衆」という情緒的な表象へ切り替えてみせることだった。「大衆」というのは「生涯のうちに、じぶんの職場と家とをつなぐ生活圏を離れることもできないし、離れようともしないで、どんな支配にたいしても無関心に無自覚にゆれるように生活し、死ぬ」*2ようなものだとされるのだが、その特徴は(知識層による)どのような概念規定からも逃れ去る、というところにある。それは反−概念なのだ。このことは、彼が「日本のナショナリズム」で行ったトリッキーな分析手法によく現れている。吉本はナショナリズムを分析するのに、国民唱歌やさまざまな愛唱歌を素材とする。そしてたとえば「兎追いしかの山/小鮒釣りしかの川」といった明治・大正期の歌曲には大衆ナショナリズムの心情が抽出されており、一方「かきねの かきねの/まがりかど/たきびだ たきびだ/おちばたき」といった昭和期のそれには、大衆ナショナリズムの基盤が喪失し、知識人によって概念化されていく過程こそが表出されている、と考える。しかし、ここだけを見るかぎり吉本はナショナリズムという言葉をほとんど強引に拡張しているように思える。ここにあるのは、大衆のヴィヴィッドな生活感情、パトリオティズムノスタルジアではあってもそれ以上ではない。その結果、大衆ナショナリズムという概念は脱色化される。それはそれ自体で自足しており、政治的な何らかの傾向性をもつものではない。だから彼は、大衆ナショナリズムが知識人によって抽象化され、一般化されて初めて「ウルトラ=ナショナリズム」(政治思想としてのナショナリズム)に変容すると述べるのだ。彼の用いる「逆立」「鏡」といった語彙は、支配層の思想が大衆の感情を反映しつつ、まったく対立するものに転換させている、という状況を表現するために用いられている。しかし、これが意味するのは、知が接近することができるのはその倒立した鏡像だけだということだ。そして、この論考が書かれた六十年前後、彼の考える「大衆」は消費社会の中で解体されつつあった。いや、たえず解体され、決して現実に現れない対象としてこそ吉本の「大衆」は構想されたのだった。つまり、それはまず時代の文脈に依拠している。彼のいう「大衆の原像」とは文字通り、対象が消えたのちにまぶたに残る残像のようなものであり、決して言葉ではなく、共感と郷愁によってのみ浮かび上がるものなのだ。吉本は、丸山真男の反安保運動の総括を批判して、戦後資本主義の成熟がうみだした「私」的利害をこそ優先する層こそが、反安保を支えたのであり、戦後の「民主」を体現するものだという*3。この「私」的利害層というのは、「自分の生活圏」に自足した大衆であるとともに、その大衆の解体を示すものである。そして今となって問題と思えるのは、60年以降、丸山ではなく吉本が圧倒的に影響力を広げていったということである。情緒によってのみ担保される「大衆」の像が、私的利害を生きる現実の大衆に重ねあわされていく。

*1:井の中の蛙は、井の外に虚像をもつかぎりは、井の中にあるが、井の外に虚像をもたなければ、井の中にあること自体が、井の外とつながっている」(「日本のナショナリズム」)

*2:「日本のナショナリズム

*3:擬制の終焉」