「民衆」像の系譜

3月1日のエントリーで述べた六十年前後の「農村」像の出現について、幾つかの追加点を備忘として。1、三十年代から戦争直後の時期に存在した「民衆」に関する知的言説としては、いうまでもなく、柳田國男を中心とした膨大な民俗学の体系がある。しかし、マルクス主義者が転向後、柳田学に逃げ込んでいくという流れはあるにせよ、僕の見るかぎり当時の「農民文学」に民俗学の影は希薄なように思う。農民文学に限らず、転向後のポストプロレタリア文学(思想)と柳田学は、並行関係にとどまったということか。中野重治と柳田の関係も含めて、そのうち、きちんと考えてみる必要があるかもしれない。2、46年から当時の代表的な知識人雑誌だった『世界』にきだみのるの「気違い部落周游紀行」(しかしすごい題名)が連載されている。これについて僕は、以前戦後的な民衆像のひとつのあらわれという意味のことを書いた覚えがある*1。しかし、それは題名にひきずられすぎたいささか粗い叙述だったかもしれない。安丸良夫はきだが農村内の民主主義を評価したことなどを挙げて「戦後啓蒙への辛辣なアンチ・テーゼをシニカルな筆致で提示した」としている*2。しかし、きだが農村の現実の単純な批判者でないにしても、そのアプローチは外部からの、民族学的な眼差し(きだはマルセル・モースの弟子)ではあると思う。やはり、彼が戦後啓蒙にシニカルな距離を持ち込んだにしても、それも啓蒙内部の出来事だったのではないか。3、新たな「農村」像の出現ということについて、僕が気になっていたのは,実は深沢七郎以上に大江である。とすると、やはり六十年前後,安保が重要だったということになる。安丸は階級闘争史や人民闘争史と呼ばれるジャンルが、「民衆史」へ転換していく画期として、色川大吉の「困民党と自由党」(1960)「自由民権運動の地下水を汲むもの」(1961)があったことを指摘している。つまり歴史学の領域でも、インターナショナルで普遍的な概念よりも(マルクス主義史学)、ドメスティックな「下層」「記憶」へと降下することを重視する方法論が出現していたということだ(聞き書きやオーラルヒストリーの重視もこの流れにある)。水俣闘争の画期をなす漁民たちの工場突入が59年11月であることを思えば、大江は石牟礼道子(彼女が水俣病に関わりだすのも59年)を包括するスパンを秘めていたことになる。大江の「谷間の村」について考えるためには、谷川雁上野英信サークル村なども含めて、こうした同時代性を視野に入れる必要があると思う。

*1:東京大学出版会創発的言語態』所収

*2:「戦後思想史のなかの「民衆」と「大衆」」『冷戦体制と資本の文化』