プロレタリア少女小説?

忙しくて三日更新を休んでしまった。ウイークデイは、授業、準備、その他とあわただしく、特に水、木は綱渡りで時間をやりくりしている感じになる。それでも少しずつ時間を盗んで、三一書房の『プロレタリア文学大系8』に収められている小説を読む。この巻は1937年7月から45年8月まで、つまり、運動としてのプロレタリア文学など完全に潰滅した時期のものを収録しているのだが、選者の竹内好の目の確かさなのか、結構おもしろい。もちろん、全盛期のような高揚感、イケイケ感はすっかり消え失せている。全体に暗く,重く、押し詰められたような苦しさが漂っている。しかし、同時にまた観念的な図式から解放されて、世間の裏ぶれた片隅をじっと見つめる寡黙な視線があるようにも感じられる。たとえば金史良の『光の中に』に出てくる朝鮮人ナショナリストや、佐多稲子『樹々新緑』の若き画家たちの群像(背景は大正時代だろうか)は印象的だし、中野重治の『街あるき』はやはり感動的だ*1また、徳永直の『日本の活字』など、作家本人は「偽装」でもなんでもなく、本心からお国に奉仕しようと思っているのだろうに、書くものが確かに反時代的な表現になっているのがおもしろい。日本の活字史を知りたいと思う語り手にしろ、死んでいく在野の研究者の三谷にしろ、「新体制」からも戦争からも疎外され、取り残された男たちなのだ。小沢清『坂』の場合、初期プロレタリア文学以来姿を消していた、流れの工員たちが再び現れてくる。舞台が好景気にわく軍需工場だからこそ、そこにいたのが画一的な「労働者」でも労働戦士でもなく、いくらかでもサボろうとする男たちと、なんとか彼らを管理して利潤を大きくしようとする経営者であったことが分かる。だが、これらの作品の中で一番奇妙な雰囲気を持っていたのが、小池富美子の『煉瓦女工』だった。重い病を持ちながら、貧しさ故に働きに出る少女、という典型的な「女工哀史」パターンなのだけど、この主人公の考えていることが、もっとおしゃれがしたいとか、すてきな彼氏が欲しいとか、どこか妙にうわついた感じなのだ(それだけに、リアルだともいえる)。ヒロインの初恋対象がなぜかおかまの美青年だったり、女の子同士のいがみあいがつづいたり、苛酷な口上労働が描かれているにもかかわらず、不思議とただよう感傷的な雰囲気。この小池富美子という人がどのような経歴の作家なのか僕は全く知らないのだけど、ちょっと不思議な感覚の作品なのだった。

*1:これはいかにも中野らしい小説だともいえる。断片的なエピソードがバラバラとつづき、最後に、一人の女が天秤棒をかつぐ姿に主人公がうたれることで終わる。その女の姿というのが、中野にしか描けないようなもので、彼にとって美的なものと政治的なものというのは、決して分離できない存在であったことがわかる。