見ることと語ること

とりあえず断片的な思いつきだけ。たぶん馬鹿なことを書くと思う。
私たちは、言葉が対象を「描写」するということに慣れてしまっている。しかし、「描写」とは何を意味するのか? むしろ、次のように述べた方が適切ではないのか。「もし、言表が対象を持つとしても、それは可視的な対象と同型ではなく、言表に固有の言説的な対象である」「確かに、可視的なものから言表への、言表から可視的なものへの繋がりは存在しない。しかし、非合理的な切断の上、あるいは間隙の上で、たえまなく繋がりは回復される」(ドゥルーズ)ここで私たちが興味を持っているのは、「フィクション」の語用論的条件といったものである。つまり、命令,指示、記述、表明、といったものがどのような条件の下で「フィクション」と呼ばれるようになるかである。なぜ、私たちは絵画を「フィクション」とは呼ばないのか? イリュージョンの存否に関わらず、そこでは直接知覚に与えられた色彩や形態のリズムが問題になっているからである(音楽も同様)。では映画はどうか。一般に劇映画はフィクションに分類されているが、これはどうやら「物語」と似たような意味で使われているようである。ある種の前衛映画をフィクションと呼ぶことには躊躇いがある。なぜなら、そこでフィルムに焼き付けられた映像が音楽にとっての音響と似たような仕方で使用されているからである(同様に、言表がフィクションになるのは「物語内容」をもった時点からなのだろうか?)。それは、私たちの知覚の現在の「向こう側」を要求しない。いわば、知覚の現在を二重化しようとはしない。今前提としているのは次のような立場だ。フィクションは事実/虚偽という対とは何の関わりもない。例えば「ナポレオンは1813年にモスクワを包囲した」といった言明は虚偽だが、誰もこれをフィクションとは呼ばないだろう(事実としては1812年)。フィクションが生まれるのは、それが知覚経験を含む時だけである。しかしその知覚は、〈私〉が経験することのなかったものでなければならない。その条件さえ満たすなら、事実に合致しようがしまいがそれはフィクションとして現れる。フィクションは〈私〉の経験の一部となるのだが、それは経験のなかで区切られた飛び地をなしていなければならない。すなわち、フィクションは事実性ではなく、経験内のフレームに関わる。離脱可能性こそがフィクションを定義づけるものである。写真をフィクションと呼ぶかどうかは微妙な問題だ。それは自分の知覚ではないので、虚構、いわば事実性に基づくフィクションといえる。 フィクション=擬-知覚という前提の検討。例えばある写真(の内容)を描写するとする。受容の段階では、それはある対象の異なるふたつの表象形式としてあらわれるはずだ。そして、その「対象」はひとつの知覚経験である。つまり、先行する知覚経験を想定せずには、それを表象としてうけとることは不可能なはずである(写真はただの濃淡の染みになってしまう)。だが、それは<私>が経験したものではないのだから、その経験は誰にも属さないものになるのではないか。(しかし知覚はつねに主体を要求するので、そこに「作者」が登場する。つまり、漂流する経験をつなぎとめる「場」として。)紙の上に引かれた一本の線は、フィクションではないし、イメージですらないだろう。では、どこまで線を増やしていけば、それは表象になるのか(例えば似顔絵を考えよ)。だが絵画にしろ、写真・映画にしろ、線、色彩といったものに還元することは可能である。ではその構成要素と全体の意味作用とを別の位相に属するものとして峻別すべきか。(単語は意味内容はもつが、意味作用は持たない?)