成瀬巳喜男と溝口健二

shiku2006-03-25

成瀬の『稲妻』と溝口の『雨月物語』を見る。『稲妻』は物語のあいまに挟み込まれる路地のカットがなんとも美しい。自分はつくづく成瀬が好きなのだと実感。やりきれない話なのだけど、暗く崩れた感じにはならず、ひとつひとつのシーンの透明な明るさ、端正さの方が印象に残る。52年の作品で、ここでの高峰秀子はまだ清純派のアイドルという感じだ。このわずか三年後には『浮雲』の主人公を演じてしまうのだからすごい。『雨月物語』の方もこれまた凄まじいばかりの完成度。森雅之京マチ子と一夜をともにする場面の凄艶さや、侍女が男をかき口説く時のおそろしさときたら。けれど、成瀬のリアリズムが、人物たちの微細な心理の揺れまでも高精細度でとらえて、それこそ中身がみしっとつまっている感じがするのに比べると、溝口の物語(登場人物)は、完璧な映像のための口実に過ぎないような気がする。人形劇的というか、物語内容よりも、映像の流麗さ、自律性の方が際立ってしまうのだ。もちろん溝口は、見事な「画」を撮ることだけに腐心して、映画としての強度や運動性を失ってしまうような凡庸な監督ではなくて、そこには生々しい情動が漲っている──だから物語が置き去りにされ、画面と分離してしまっているというわけではない──のだけど、その情動というのはほとんど、個別の一回的な事件、人物に由来するというより、はるかに抽象的なものになっている(だから、物語が寓話のように見えてくる)。この抽象性が一番見事な効果を挙げていたのは、『近松物語』であるような気がするが、だいぶ昔に画像の悪いビデオで見たきりなので、また見直すと考えがかわるかもしれない。それにしても、森雅之というのはやたらとデカダンな二枚目という印象が強かったのだが、ここでは欲に憑かれた農民を泥だらけで演じていて意外だった。というか、『悪いやつほどよく眠る』の悪役の公団副総裁も森雅之だというのが、どうしても信じられない。