カント『純粋理性批判』

先週からぽつりぽつりとカントの『純粋理性批判』を読んでいる。何かの待ち時間に一ページだけといったペースなので、読了はおぼつかないが*1,それでもときどきはっとするような文章にあう。たとえば、カントは「経験の対象」(現象)は、経験においてのみ与えられている、ということを何度もまわりくどくくり返す。これはあたりまえに聞こえるかもしれないが、私たちが知覚できるものは、現象だけなのだから、自分が認識したと思い込んでいる物事はつねにこの経験する主体、という座なしには何ものでもないことになる。すると、この経験された「現象」を主体がどのように組織化し、形式化していくかが、世界そのものの現れを決定するだろう。だから過去さえ、それ自体で存在するわけではない。「過去の時間系列は、それ自体としてではなく可能的連関の経験においてのみ、現実的なものとして表象されるわけである」。これは私たちが「過去」そのものを想起することは出来ず、ただ「過去の出来事」のみを思い出すだけだ、というように言い換えることが出来るかもしれない。つまり、経験された出来事という現象を、組織することによって過去(と現在)という関係が生まれるのだ、と。しかしだからといって、過去が存在しないということにはならず、過去は経験が組織される「形式」として厳然と現実的に私たちを縛っている。カントはこのようにもいう。「ところでもし現実と夢とが、経験的法則に従って一つの経験において正しくかつ完全に連関しているならば、現象が経験的に事実であることは空間および時間において充分に保証せられるし、また夢との類似からも明確に区別せられるのである」。だがこれは逆に、現実と虚構も、それ自身として(それのみで)内在的に区別できるわけではなく、諸現象の関係(正しくかつ完全な連関)を遠してしか判断できないということだ。そもそも知覚そのものには、事実も虚構もなく、単なる直接性しかないのだから。こうしたことは、ではフィクションの内部では複数の現実性がどのように配備されているのか、といった疑問を誘う。私たちは、フィクションが現実を模倣する(反映する)といった考え方に慣れてしまっているので、フィクション自体が複数のレベルの異なる、あるいは形式の異なる「現実性」によって構成されているかもしれないということには思いいたらない。フィクションが持っている現実性の水準を一定に保つことが、いわゆるリアリティの条件であるからだ。しかしフィクションのなかのフィクションというのは珍しいものではないし、そのたびに虚構性の度合いが大きくなる、とも限らないだろう。むしろ、作品の推移に従って、表象間の関係が転換し、現実性の水準も変化する、といったことが考えられる。*2

*1:これまでにも何度手にとったか分からないが、通読した覚えはない

*2:この表象関係の転換について、例えばカントはこうもいっている。観測は不可能だが、その存在が想定される星について「かかる星が、物自体として可能的経験一般にかかわりなく与えられているとしても、それは私にとっては無であり、従ってまたそれが経験的背進ないし進行の系列に含まれていないかぎり、対象にはならないのである」。しかし経験的な認識の「進行の系列」はひとつではあるまい。つまり、他の系列に分岐する、といったことはありうるだろう。