『西鶴一代女』

溝口健二の『西鶴一代女』。最初は江戸時代にしては、妙に近代人めいた人物たちの言動に、居心地の悪さを感じていたのだけど、途中からそんなことはどうでもよくなってしまう。とくに、田中絹代が生き別れた息子がのる駕篭に遭遇する*1場面から十五分程はただただすばらしい。一昨日、溝口の人物というのはどこか人形めいてみえると書いた。たとえば『雨月物語』の小沢栄は、戦で手柄を立てて武士に取り立てられることを望む農民、というそれ自体、時代小説の典型人物以上でも以下でもない。そして、典型であるがために、作品内で人物の個性や心理といったものを手間ひまかけて描写する必要がない。観客はすでに登場人物が何ものであるかわきまえているし、物語も、ほとんどお約束どおりというべきものだ。だからこそ観るものは、圧倒的な映像表現と情動的な高まりに集中することができる。
そのようなことを考えていたせいか、『西鶴一代女』を見ながら、これがまるで人形浄瑠璃であるかのように感じられてしかたがなかった。実際途中で人形浄瑠璃が出てくるせいもある。もちろん、人形浄瑠璃では生身の役者がもつ個別の身体や個性といったものは排除されている。物語も、あらかじめ観客との間で共有されていることが前提になるだろう。そしてそのことが、個別の人間、具体的な状況を超えた普遍的な情念の流れというものを稀なるインテンシティで示すことを可能にする。近代的なリアリズム小説──といっては幅が広すぎるので、例えば『ボヴァリー夫人』を想起してもらいたい──では、人物相互の関係や状況が、ほとんど機械的な精密さで、人物の心理を追いつめていかなければならない。それに対し、近松の心中ものを読むとき感じるのは、具体的な状況から生まれた葛藤から出発するにもかかわらず、性愛と結びついた死への欲動が、その状況をはるかにのりこえて暴走していくときの官能性である(情念と状況が均衡していない)。別の例を挙げるなら、成瀬のひとつひとつのショットが、それこそ痛いような精確さで、人物が感じている孤独や苛立ちを表現するのと比べると、溝口の朦朧と揺れ動く画面はそうした個別性を伝えてこないように思う。そのかわり、どこまでも落魄していく女の一生が、夢のように圧縮されて(最初と最後に同じエピソードがくりかえされて円環が閉じるのも夢幻の感覚を強める)流麗なひとつの流れとなる。くりかえしになるが、個々のエピソードをぬきだしてとりあげれば、事件にしろ心理にしろ、かなり紋切り型でご都合主義的ですらある。だがそれは必要な条件だったのだろう。そして田中絹代をのぞくすべての登場人物が、結局あぶくのように浮かんでは消えていく点景人物以上ではないのも、墜ちていく彼女の姿だけが真実であり、その他はすべて車窓をかすめる風景に過ぎないからだ。それは何よりも回想という形式にふさわしい。リアリズムの基本時制が現在(現前性)であるのに対し、回想の中ではすべての個別性が溶融し、普遍性と鋳直されるのだ。

*1:それともあの駕篭によって息子の記憶を呼び覚まされたということであって、実の息子ではないのか?