増村保造、山内鉄也、山中貞雄

映画を三本。増村保造の『巨人と玩具』は、開高健原作の社会風刺劇。とにかく、当時(1958)の紋切り型の社会批評を一層通俗的にしたような台詞を、最初から最後まで俳優たちががなりまくる。というわけで、騒々しいのなんの。見終わったあとで、げっそりと疲れた。ではかといってつまらないかといえばそうでもなく、テンポの良さと当時の風俗につられて見てしまう。描かれる出来事にしろ展開にしろ、ひとつひとつがあまりに大げさでわざとらしいのだけど、その過剰さに魅力がないわけではないのだ。たとえば、路上でジグザグデモをやっているところに、主人公たちがのったキャラメルの宣伝カーがやってきて、特売の宣伝をする。画面は俯瞰で、そのデモとキャッチコピーをアナウンスする車とを長々と映し出す。つまりこれは、「現代」では政治意識がコマーシャリズムによって浸食されていく(あるいは政治も商売も同一平面上の出来事にすぎない)といった主張の馬鹿馬鹿しいほどの「絵解き」としてあるわけだが、そもそもジグザグデモと宣伝カーをとりあわせるという発想自体、この時代でなければありえないようなものだろう。舞台は大手製菓会社の宣伝部。ライバル会社に負けまいと、やり手の宣伝マンたちが、一人の少女をマスコミに売り込んでスターに仕立てあげ、その力でキャンペーンを乗り切ろうとするのだが、自分たち自身がマスコミに踊らされ、といった話。血を吐きながら仕事する「モーレツ」サラリーマンとか、「歌声喫茶」で肩を組んで歌っていた親友を出世のために裏切る新入社員とか、キャラクターがまたいちいちベタ。ヒロインの野添ひとみはとっちらかったような容貌だし、恋人の小野道子は二重あご。だけど、こういう切れないはさみで切りとったような荒っぽい人物造形が、当時の通俗作品の作法なんだよな、とも思う。とにかく、こうしたガチャガチャした映画が小津や成瀬と同時代に作られていたのだ、ということを再確認できただけでもよかった。
山内哲也の『怪竜大決戦』は、66年の冬休み児童向け番組だったらしい。怪獣映画かと思って見出したら、松方弘樹主演の忍術活劇だった。もちろん怪獣は出てくる。メインストーリーは、悪者によって乗っ取られた城を、城主の忘れ形見いかづち丸(児雷也)がとりかえし親の仇を討つというもの。悪の忍者頭に大友柳太朗。怪獣というのが、龍と蝦蟇で、なぜだろうと思っていたら、もともとこの児雷也というのは江戸時代の読本に起源をもつ蝦蟇に乗ったヒーローらしい(ときどき歌舞伎に出てくるアレですね)。ヒロイン綱手があやつるのは本来なめくじらしいのだが、ここではなぜか蜘蛛に。これも他愛もない話だが、そう思ってみてれば結構楽しい。特撮は微笑ましく、松方弘樹は図体ばかりでかくなったこどものようにみえる。それに今では見られなくなってしまった、どぎついようなカラーの色調が、いかにも物語にふさわしい。
さて、ずっと見たかった山中貞雄の『丹下左膳餘話 百萬両の壺』だが、これがなんともすばらしいのだった。ただし圧倒的な強度で人を打ちのめし、揺り動かし、考えさせるような作品とは違う。非常にすっきりとした、純粋ななにかを見た感覚。

山中貞雄がなぜすばらしいのか、DVDを流してみたのだが、別に何がわかるわけではない。大体次のようなことを思う。山中貞雄の画面の不思議さ。とりわけ、丹下左膳(大河内伝二郎)が暮らしている矢場の室内のシーンがいい。全体に白っぽい、平面的な画面。画面の構図の繊細だが強固な構築性。奥行きのある画面でも、不思議と一枚の絵のようにみえる。それが瀟酒で軽い感じを与える。役者の見事さ。大河内伝二郎はもちろんだが、その恋人の喜代三が、小唄を歌うシーンがすばらしく、これが要所要所でくりかえされて作品を締めていると思う。なんでも彼女は役者というより、実際の歌手らしく(このような小唄の歌手というのが当時はいたということか)、女優としてはむしろ下手なのかもしれず、台詞はほとんど棒読みのようでもあるのだが、それが江戸っ子が啖呵をきっているようにも聞こえて気にならない。そして、彼女の身体の「型」、つまりすわりながら膝をくずしてもたれかかるときや、斜めにこちらをふりむいたときなどのシルエットがぴたりと決まるのだ。当時の映画俳優が、身体の動きや表情にどれほど情感を込められるかを競っていたとするなら、彼女は顔も、身体もほとんど無表情だ。だが、それが動きを止めると見事に決まる。これもまた俳優というより、芸事の伝統で培われて来た身体表現かもしれず、いわゆる「粋」というのはこのようなものを指すのかと思ったりする*1緊密で、不要な要素の一切ないプロット。物語ばかりでなく、画面の繋ぎ方や、人物の入り、出にもまったく無駄がない。しかしそれがスリリングな緊迫感につながるのではなく、軽やかで遊戯的なタッチをもたらす。たとえば、ストーリーを駆動するものとして、埋蔵金のありかを隠した「壺」探しと、やくざに殺された男の敵討ちというふたつのモチーフが最初に与えられるのだが、すぐにそれらはどうでもよくなってしまう。確かに「壺」探しは、ストーリーの公式の目標であって、すべてのエピソードが緊密にそれと結びついているが、実のところ、登場人物たちはそのようなものに関心をもっていない。彼らは、金銭への欲望や復讐といった、つよい動機を一貫して持ち続けることができない。彼らは、目の前のことにしか興味を持たない子どものような存在であって、彼らの時間は瞬間的な怒りや満足といったもので満たされている。その結果、死を伴う暴力や金銭への執着も、遊戯の一部に過ぎなくなり、ただその天上的な軽さの印象だけが残る。

*1:一方、くず屋の二人の身体は、あきらかに当時の大衆演劇の喜劇役者のそれだ。そのためこの二人が出てくると、画面に少し泥臭いほんわかとした雰囲気が漂う。