「未来」、タケリン、阿部知二

先日、日本から荷物が届いた。そのなかに、未来社の広報誌『未来』三月号が入っていた。確かeditorN氏もいつかの日記で書いていたはずだが、この雑誌は今とても充実していると思う。大宮勘一郎という人の連載「大学の余白/余白の大学」は難解でいつも読み通せないのだが、杉浦勉「霊と女たち」は楽しみにしているし、戦争を報道しつづけたイラク人女性のブログ(http://www.geocities.jp/riverbendblog/)についての連載「イラク女性、政治を語る」(細井明美)もおもしろい。道場信親「上野英信『親と子の夜』その三」は、ちょうど今僕が興味あるところをヒット。もっとこの時代の文化史、政治史の周縁領域を勉強する時間があったらな、と思う。道場信親氏はもう売れっ子かもしれないが、ほかにも佐藤泉さんなど、僕と同世代の研究者がこの時代に関する仕事をつぎつぎ発表している。本当は三十年代がわからないと、五十年代もわからないんだけどね、などとちょっと強がりをいってみる*1
他には、岡崎乾二郎による、アドルフ・ロースの書評など。拾い物だったのは、安藤礼二の「イメージの劇場」だった。川本喜八郎死者の書』という折口信夫の映画化についての評なのだが、これで、折口の『死者の書』が連載から出版までのあいだに順序をいれかえるなどの手が加えられていること、背景に迎講という一種の宗教演劇があることなどを知った。実は、一ヶ月くらい前から、なぜか「来迎図」というものが気になっており、それについて考えをまとめたいと思っていた(そのうちこのブログで書くかもしれない)。「死者の書」をその補助線に加えることができるかもしれない。どうも折口というのは苦手なのだが、読み返せばおもしろいだろうか。
タケリンこと武田麟太郎。「暴力」「反逆の呂律」「日本三文オペラ」「市井事」「一の酉」「現代詩」「朝の草」を読む。タケリンってこんなにいい作家だったのか、と思った。前「釜ヶ崎」や「大凶の籤」を読んだときは、その「糞リアリズム」をおもしろいとは思うものの、作品として好きとはいえなかった。しかし、「一の酉」「朝の草」など相当いいのではないか。一瞬岡本かの子を連想してしまったのは僕の勘違いかどうか。武田麟太郎が、こういう官能性を持っていたことが不意打ちだったので点が甘くなっているのか。あと、やはり「日本三文オペラ」は、プロレタリア文学解体過程の証言として興味深いと思う。
阿部知二、というと、まず思い浮かぶのはメルヴィルの翻訳だろうか。確か、岩波文庫の『白鯨』も阿部知二訳だったはずだ。だが阿部は小説家でもある。しかし、今はほとんど忘れ去られている、といっていい。『冬の宿』を再読し、『黒い影』というのをはじめて読んだ。『冬の宿』などはやはりいい作品なのだ。シークエンスのつなぎの上手さ、時間の流れのよどみなさ。マルクス主義退潮期の空白を、いわゆるブルジョア文学の手法で埋めた作品、青春小説の佳作として記憶にとどめられていいと思う。戦前期リベラリズムの良質の部分。けれど、よみおえたあとなぜか、ある種の弱さ、中途半端さを感じてしまう。語り手の〈意識〉を通過して外界を描くという(正統的な)スタイルのせいだろうか。高見順などより、よっぽど好感が持てるのだけど。

*1:といいつつ、三十年代もいまだにわからない