島木健作『生活の探求』(1)

当然とっくに読んでいるべきだった『生活の探求』を、ようやく読み始めた。その感想を同時並行で書いてみる。もちろん、この作品は、いわずとしれたもっとも(悪)名高い「転向」小説だ。その主調線は、ほとんど冒頭の部分にはっきりとあらわれている。

彼は自分の過去に決別しようとしていた。脱出の道のない、泥沼のような観念の世界にはまり込んで、脱け道がないということのなかにかえって陶酔していたような過去に別れようとしていた。他人の生きた経験をそのまま拠り所とするわけにはいかぬ、先ず自分自らがほんとうに社会を生きて見なければならぬ。彼はそのような一般的な意志を持ち始めたが、もしもこれが、今から七八年も前であったなら、新しい道は具体的な、明確な道を取って彼の前に開けたであろうが、今はそうはいかなかった。彼の歩みは、何か生活的なもの、実質的なもの、中身のぎっしりつまっているもの、生産的なもの、建設的なもの、上附かずにじっくり地に足のついたもの、そういう内容一般に強く心を惹かれるという、きわめて漠然とした抽象的な姿において始められたのである。ちょうどそういう時、彼の村の生活は彼の前に展けたのである。

しかし、この作品が力を持ったのは、こうした抽象的な観念を、かなり具体的な印象の複合によって表現しえたからだった。はじまってしばらくのところに、老いた農婦の父親を手伝って、家の井戸を掘り下げるというエピソードがある。ここでは「労働」の観念が、手に持った石のずっしりとした重み、筋肉のきしみ、滑車のきしりといった具体的な事物の描写に無理無く解消されている。さらに、井戸掘りの細かな手順、ノウハウが、冷静な観察眼によって捉えられていることで、「農村」に蓄積された職人的な技術、知識というものがあらためて再発見されるようになっている。この場面で主人公は肉体労働の苦しさとともに、「苦痛のあとの歓喜に似たもの」を感じるのだが、同時に自分は実践的な知識において、力仕事においてさえ、自分は老いた父にかなわないと自覚する。ちょうど中野の『村の家』と対照的に、主人公は父の側に立つことが予告されているのである。
この井戸掘りのエピソード自体が、象徴的な意味を持っていることはいうまでもない。一見詳細な描写がつづくために気がつきにくいが、時間を経て水の枯れがちになった井戸を掘り下げるという行為は、疲弊した「農村」の再生(それは父と子、農民と知識階級の恊働によって達成される)を意味していると同時に、彼という人間の内的な回復をも示唆しているだろう。つまり、それは尽きせぬ「水脈」に到達することなわけだ。その意味で、途中で彼が怪我で現場から退くのにあわせて、掘り下げが成功し、澄み切った水が滾々と湧き出てくるという(このエピソードのクライマックスになるであろう)場面がさりげなく省略されていることは興味深い。エピソードが持つ象徴的意味作用は、途中で停止されることによって、作品全体に射程をのばす。
この作品が持っているイデオロギー的な意味合いも、作品内部で、あらかじめ批判されている。主人公駿介の郷土の先輩であり、「転向」後、失意の身で故郷に帰っている志村による批判である(主人公は、直接共産主義運動にコミットしていなかったために、厳密には「転向者」ではない、という設定)。志村は主人公の、農本主義的、郷土主義的な傾向が凡庸な保守主義とかわらないことを指摘する。

理論的にも実際的にも、試験ずみ、批判ずみの古いものが、いかに手を換え品を換えして、その時代その時代にふさわしい装いをこらして現れることか。そして若いジェネレーションをたぶらかすことか。たとえどんなに新しそうな顔つきをしていても、大抵は古物の複製版さ。君の場合なんかはあんまりはっきりしすぎている。――二つ三つよく知られた名をあげて見りゃ充分じゃないか。武者小路の新しき村、もっと古いところではみみずのたわごとの蘆花、蘆花の貧弱な縮小版に江渡某なんていうのもあったね。糸魚川に引っ込んだ相馬御風なんかも挙げていいかもしれない。島崎藤村なんかも息子を田舎へやって百姓にするというので、何か尤もらしい感想を書いていたじゃないか。小説の中にはトルストイにレーヴィンという先生がある。君なんか好きかもしれないな。もっとも君がレーヴィンになるには、まずあれだけの土地持ちにならなきゃならないがね。

これらの言葉によって、この作品のイデオロギー的系譜ははっきりと示されているといっていい。特にレーヴィンが引かれるくだりは、この直前に『戦争と平和』に触発されたと思しい麦刈りのシーンがあることによって効果的である。しかし、この志村との議論の場面の役割は、『生活の探求』という作品に対するこのような予想される(現在からみても正当な)批判を、あらかじめ相対化し、無力なものにするところにある。ここで重要なのが、駿介の反動化を批判する志村の方こそが、社会的には「転向者」であるということだ。会話の合間には、志村の憔悴し、内向した皮肉な心持ちを示す表情が描写される。志村の言葉は鋭利であり、的確であればあるほど、彼の苛だち、寄る辺のなさを表現するものとなる。つまり、ここでは発話の内容と声調が分離されていて、声調において、志村は決定的に信念を欠いた、浮遊するインテリゲンチャであることが印象付けられてしまうのである。この苛烈なイデオロギーの季節(それはつまり、複数のイデオロギーが抗争しあう、イデオロギー批判の季節でもある)にふさわしく、志村は典型的なイデオロギー批判者である。彼はあらゆるナチュラルな観念に支配のためのイデオロギーを読み取る。が、駿介はそうしたイデオロギーのゲームから降りようとする。だがもちろん、イデオロギー批判の渦にあってはそれが最強の立ち位置である。