カントと「心身問題」

カントを、主客二元論者としてみることは誤りだと思う。たとえば、彼はいわゆる「心身問題」を問題ではないと一蹴する。「心身問題」というのは、私たちの精神と、身体との構造的な対応、つまり、自分が手を挙げようと思ったときに、どうして手が挙がるのか(と書いてみると馬鹿みたいだが)、そのメカニズムを問うているわけだが、カントによれば、身体や物質といった「外的表象とても思惟する主観に属することは、諸他いっさいの思考とまったく同様である。ただ外的表象は、対象を空間において表象するので、いわば心から分離され心の外に漂っているかのような思い違いを起こさせるのである」ということになる。
だから、問題は「心と我々の外にある既知の異種的な実体との相互関係の問題ではなくなって、内感の表象と我々の外感の変容との結合の問題に過ぎなくなる」。すなわちカントは、主観の外部なんてない、すべては主観内部のできごとなのだ、といっているわけだ。もしカントが二元論に見えるとしたら、それは空間という形であらわれる「外的」な形式と、時間という「内感」の形式の区別を厳密に堅持しつづけるからである。
しかしこれだけでは、今度は極端な主観一元論(独我論)のようにみえてしまうかもしれない。しかしカント自身はそのようなものを「独断的観念論」と呼んで退けている。どういうことか。
実際には、この主観という言葉が私たちが通常考えるものから大きく変容してしまっている、と考えるべきだろう。主観が周囲にある客観(外界)をとらえ、認識する、というのではない。また外界は主観によって投射された幻影ではない。物質的な外界はもちろん、<私>もまた現象に過ぎないのだから、ここにあるのは、純粋な知覚(現象)一元論であって、そこから<私>と世界という対が生み出されてくるのだ。あるいは、むしろ「触発」こそが先行する、というべきかもしれない。世界と私、ではなく、世界=私、これらは現象が現象するときのふたつの異なる形式にすぎない。
とすれば、存在するといえるのは、世界や主観ではなくて、現象を触発する「物自体」と現象を整序する「統覚」である。だがどちらも、実体ではなく、ある種の働き、機能である。これらは決して認識の対象となることはないまま、現象(としての世界と私)を生成していく。徹底した一元論。カントのスピノザ主義? 
ところでこのようなことを書いたのは、フーコーの方法論をこのカントの構図を参考にして考えることはできないかと思ったからだ。フーコーの言表と可視的なものとは、決してどちらかが先行する、というものではなさそうだ。社会変動や経済構造の変化が、社会で語られる言説を変化させる、というのは常識的な見解だし、逆に、言説こそが社会関係や、主体の体制を形成する(いわゆる社会構成主義)というのも今では広く受け入れられている(フーコーは一般に後者のイメージで受容されているが)。しかし、フーコーの独自性は、どちらかを優位に置くのではなく、両者を社会が現象するふたつの形式(「可視性」というのも実体としての社会構造ではなく、観察者の前にそれが現れる姿であろう)としてとらえたことにあるのではないか。もちろん、そのうえで両者の異質性、関係が問題になるのだけど。
少し別の言い方をしてみよう。大正期における、それまでの世間のような概念とは異なる「社会」の浮上、出現は言説内部のできごとである。これは社会政策にまつわる言説のなかなどで確認できる。ここでは、物質やできごとが実在するもので、言葉はメタレベルのコメントないしプランだという考え方を捨てなければならない。言説は、それだけですでに認識であるとともに規制、構造化、指示であって、それ自体が社会を構成する。同時に、並行する可視的なものとして、都市計画といった社会装置が見出されるだろう。