『姿三四郎』『楊貴妃』

黒澤明のデビュー作『姿三四郎』。1943年の作品だが、当時の時代の雰囲気を感じさせるようなものは微塵もない。黒澤のすべての作品の中でも、もっとも明るくのびやかなもののひとつではないだろうか。国策にそわない部分をスタッフが関知せぬまま削られ、戦後復元しようとしたのだがフィルムが散逸してしまっていた、との但し書きが最初に字幕で入るのだが、削除されたのはどのような部分だったのだろう*1。少なくとも今の版で見るかぎり、ほとんど時代の影の落ちていない、爽快な娯楽作という印象を受ける。
だがこれ一作で、黒澤は大いに注目されたらしい。小林信彦は当時小学生か中学一年だったが、「「姿三四郎」を観ていない子供は仲間に入れてもらえなかった」と書いている。確かに、それくらいの男の子に受けるかもしれない。藤田進は、素朴な体育会系青年を演じてはまり役。あと、黒澤映画ではどうしても普通の愛らしいヒロインというのが少ない気がするのだが(『我が青春に悔いなし』の原節子の怪演のような強烈な女性はいるけれど)、志村喬の娘役の轟夕起子は可愛いと思った。
黒澤がロケーションの監督だとするなら、溝口はセットの人だという気がする。『姿三四郎』でも一番スタイルが際立っていたのは、ラストの風吹きすさぶ平原での決闘シーンだった。『楊貴妃』はほぼ全編室内撮影。そのせいだけでもないだろうが、溝口の弱い部分(といってしまっていいか微妙だが)である、素人劇めいた感覚が全編をおおっている。弱い部分、というのに躊躇があるのは、溝口の凄さもそこから来ていると思うからで、溝口は人間を普遍的な型(タイプ)としてとらえようという志向があるのだと思う。よいときにはそこから、ほとんど非人称的な情動が迫り出してきて、この世界のどこにも位置づけられない、絶対的ともいいたくなるような光景が生まれる。だけど、そうでなければ、わざとらしい紋切り型の人物が、平凡な物語を辿っているだけ、という感じになる。この『楊貴妃』でも、森雅之は孤独で繊細な専制君主京マチ子はどこまでも誠実で貞淑な若い妃、という平均的なキャラクターをはみ出そうとはしない。安禄山などいかにもそれらしい(つまり嘘くさい)衣装を身につけた、現代日本人以外のなににも見えない。まあ、だからといってつまらないわけでもなくて、見出すとそれなりにスムースに見てしまうのだけど、『西鶴一代女』や『雨月物語』のような、超絶的な傑作とはちがうのだった。

*1:僕が見たのは79分版だが、日本では93分まで復元されたDVDが出ているらしい