総力戦体制とシステムの支配

1959年に筑摩から出版された『近代日本思想史講座』の第一巻を読む。家永三郎を責任者として、鶴見俊輔、猪野謙二、橋川文三などが分担して執筆している(前書きは竹内好が書いている)。一番おもしろかったのは、藤田省三による第三編第三章「天皇制のファシズム化とその論理構造」で、ここで藤田は、「高度国防国家」から「国民総動員」に至る過程を、メカニズムによる支配を確立しようという運動としてとらえている。
このメカニズムによる支配とは、特別な権威をもった個人の裁量ではなく、明確な目的、規則、合理性によって国家システムが管理される状態をさす。この場合目的は「戦争の遂行」であり、その目的のために社会のあらゆるファクターが合理的に動員され、その管理者の位置には、エンジニア(技術者)としての「革新官僚」がつく。このようなファシズムテクノクラート関係については、すでにかなりの研究がある(例えばhttp://www.e-hon.ne.jp/bec/SA/Detail?refShinCode=0100000000000019780024&Action_id=121&Action_id=121&Sza_id=GG)。藤田の場合は、革新官僚奥村喜和男の「電力国営化案」を典型としてとりあげながら、当時「私有共有の原理」と呼ばれたものが、私的所有権を一定認めつつ、それを「公共」の利益に組み込もうとするものだったという。つまりのちの太平洋戦争期のような、国家の利益を一方的に強調するものではなかったのだ。
もちろん、藤田はこの時期の「進歩的右翼」(警保局「出版警察資料」による分類)を再評価しようというわけではない。この議論のポイントは、この合理主義が、逆説的にも「強力支配人格」を要求する、というところにある。

総力戦国家が要求した政治原理は一言にしていえば支配の非人格化である。ただしこの支配の非人格化とは一見矛盾した二つの意味を含んでいる。一つは、言うまでもなく、人間的つながりによって支配が行われるのではなくメカニズムが支配するのだ、という支配観がつよい形で全面に出てきたことである。しかしいま一つは、普通の具体的人格を遥かに超えた能力を持っているという意味で非人格的な強力支配人格を要求したことである。

システムが複雑になり、巨大になればなるほど、システムはシステムの内部に属さない「決断」に依拠するようになる。官僚にできるのはシステムを円滑に機能させることだけであって、いわばシステムに初期値をあたえるもの、その目的と意味を決定するものが必要になるのだ。そのため、期待される「強力人格」として、近衛文磨が担ぎだされた挙げ句、結局闇雲に(非合理に)決断する能力だけを持った軍部が権力を掌握する。非合理が合理を従えると言うパラドックス
ところで、これってここ数年の小泉人気の分析みたいじゃないか。「国防」を国際経済での生き残りと書き換え、「メカニズム」の頭に「市場」と付け加えれば、ほとんど今に通用するのではないか。本来の自民党の支配スタイル、すなわち田中角栄に象徴されるような、ボスが個人的な「人格」の魅力で有力者を組織していくような泥臭いスタイルを小泉はぶちこわした。そして小泉から感じられるのは、奇妙に非人格的な印象、人間くささの不在だ。そのかわりほとんど非合理としか思えない、決断や信念だけは豊富に持っている。国民はこの「非人格的強力人格」に喝采したのではないか。
閑話休題。藤田はこの「国防国家」論が放った強烈な魅力の理由として、統制国家の傾向が世界のトップモードになりつつあったことと、抽象的な論理のもたらす感覚的効果をあげている。西洋へのキャッチアップを強迫とした明治以降の日本国家は、もっとも「モダーン」(最新)であるものへの抵抗力を持たなかった。善し悪しを判断することなく、たえず最先端に近づくことだけを身上としていた、ということだ。(しかしこれもまた今も同じじゃないのか。日本もネオリべを選ぶ理由として、それが「世界の趨勢」だから、という以上の理由があるのか?)これを藤田は、日本は「近代主義」ではあったが、主体形成という「近代の原理」を内在することはなかったとまとめている。
第二の論理の感覚的効果とは、まずマルクス主義のかたちで席巻したものである。革新官僚は、マルクス主義に触れつつ、決定的に赤化することのなかった世代に属する。(そういや、転向小説に出てくる主義者とへんに訳知りの検事といったとりあわせは、この世代差を考えれば納得がいく。)
ではこの理論の社会的基礎はどこにあったのかとして、藤田は、恐慌下にあった農村を挙げている。「直接耕作者たる「在地中間層」(村長、部落組合長ら)が寄生地主のパースナルな支配を脱すべく「国家」に直接の援助を求めて、いわゆる「救農国会」前後には群をなして議会陳情運動を展開したこと、またそれとの関連のもとで産業組合運動の中で農村に市場の論理としての人間関係の「技術」が重視されてきていたこと。」
このあたりは『生活の探求』の背景を彷彿とさせる。ここで重要なのは、農民文学懇話会などをつくった革新官僚の大立て者有馬頼寧だろう。

昭和十四年にできた平野力三(1898-)らの農地制度改革同盟のその後の大会では全国各地の参集者が殆ど全部同様の発言を行っている。「国家と我等の間に一階級が存在することはよくない」「中間搾取者」を排除して「農地の国家管理」を実現せよ、というのがその主張であった。昭和十五年の議会には「農地国家管理法案」を提出、それは自作地を除く農地、つまり不耕作地主の所有地を国家に「収用」すること、自作地を国家管理すること、結局農地に関する私的権利は耕作権のみとし、その耕作権を「世襲」とすること、などが立案されてあった。もちろんこれが前近代的な要求を含むものであることは家産制耕作権の主張を見れば明らかである。ただし興味深いのは、彼らの言う農地管理者としての国家は、内容上実質的には天皇でもなければ、またいかなる人も含むものではない。ちゃんとした「機関」を指しているのである。地方の農業尽忠会のような直接的集団の支配を許さない「機関」なのである。

さて、この藤田の論を受けてすぐ気になるのは、大河内一男らの「生産力理論」との関係だろう。また同じ大河内では、理研コンツェルン大河内正敏の名を藤田は挙げている。大河内正敏には農村つながりというのもあって、彼は農閑期の農村労働力を活用し同時に農民の所得向上を図る「農村工業」を提唱。新潟県柏崎を中心とした村落毎に小工場群を設置し、低熟練の加工作業に農村婦人を従事させた、ともhttp://www.jabira.net/retsuden/aa/oukouti.htm:title:こちらに書いてある。
「生産力理論」については、今では翼賛体制の一部と見る見方が強いだろうが、『リヴァイアサン』の翻訳者水田洋が、当時は明らかに抵抗の響きをもっていた、と書いている。(http://www2s.biglobe.ne.jp/~mike/mizutamaruyama.htm)抵抗と迎合の境界は何処か、というおなじみの問題にぶつかるわけだ。

ぼくの理解では、生産力理論というのは、戦時経済が要求する生産力の増強のために、合理化をおしすすめていけば、やがてそれは体制をささえる非合理的要素にはねかえってくるという考えかたであった。戦時経済は合理化を必要とするが、合理化は戦争主体をつきくずすというのである。天皇制や国家神道が排除されるのはもちろんだし、生産の現場でも、たとえば労働力不足による農業の機械化は過小農制と地主制とにぶつかるだろう。ようするにこれは、コミンテルンの日本にかんするテーゼのブルジョア民主主義革命、すなわち純粋資本主義の成立にほかならない。生産力理論がもっているこのような合理化要求(たとえば労働力保全)に、戦争協力をこえたものをあとから読みとるには、当時の戦争主体のもとでの日本社会の性格(反近代と要約しておこう)について、かなりしっかりした認識が必要であって、それは生産力理論の字づらからはわからないだろう。

ちなみにこんなことも書いてあるのがおもしろい。

たとえば、生産力理論を代表する文学作品といわれる久保栄の『火山灰地』で、農場長雨宮が「ぼくの考えてることが……社会主義者なんかのいうこととおなじような結論におちつくとすると……途中の推理が……かならずまちがっているはずだ」というのを読めば、それは良心的な農業技術者=科学者の論理が、意識しないで社会主義に到達することを意味するのだと、われわれは理解したのだ。

そういえば、花田清輝は『火山灰地』を高く評価していた。花田が総動員体制に批判的だったのは当然だが、それはむしろ合理性の不徹底と平板さに向けられていたと思う(『転形期の精神』のガウスの章を見ればわかるはずだ)。
どうにもとりとめがなくなってきたが、もうひとつ補助線をひく。戦前のある種の合理主義が、(山之内靖らが批判的に、水田洋が肯定的に)いうように、戦後の丸山ら「市民社会派」へとつながっていくのだとしたら、ここで「主体性論争」を脇においてみることもできるだろう。つまり、戦前の合理主義はマルクス主義もふくめいわば官僚的合理主義であって、ゆえに、主義者から満鉄のテクノクラートに転身するような人間も輩出した、という観点である。このような合理主義はかえってファシズムを基礎づける。組織と個人、つまりどのようにシステムに主体性を持ち込むことができるのか、という発想が戦後思想の出発点にあったことはまちがいない。