「私の神経症性」

斎藤環の本をぱらぱらと読んでいて、最近の作品では、作中人物が自分が虚構であることを意識するようになった、という意味の文章にぶつかって思わずうなずいてしまった。今読み返すと、斎藤は小説のことだけ考えているわけではなく、「ほとんどのジャンルで」それが起こったといっている。

「私」の虚構性とは、つまるところ「私の神経症性」と言い換えることができる。自分自身が虚構内存在であることに自覚的な存在を「神経症」と呼ぶからだ。そして八〇年代以降ほとんどのジャンルで起こったのは、作中人物の神経症化とでも呼ぶ他ない事態だった。いちいち例を挙げないので、納得した人だけこの先を読んでくれればいい。

僕も若干似たようなことを書いた覚えがある。それは、人物や事件に「交換可能性」の感覚が浸透しているかどうかが、いわゆる「純文学」らしさの弁別基準になっているのではないか、ということだった。小説というのは基本的には、語り手にとってはささやかでありつつも「決定的」な事件や出会いを描くものなわけだが、しかしそこに「結局これも交換可能(=虚構)なんだよね」という手触りがあるかどうかが重視されるようになっている。これは多分に、文芸業界内部の「ローカルな政治的圧力」(これも斎藤環)に属する問題だと思うのだが、単純にそれだけでもないだろう。ある程度は、もう少し広汎な感覚レベルの合意に基づくものだろう。
とはいえ、今の純文学というのは、都市のフリーター的若年層といったごく一部の層の感覚しか反映しないものになっているので、あまり大げさに考えると誤るかもしれない。