花田清輝の戦後批判

五十年代の左派ナショナリズムの昂揚に対して、独自の位置からの批判を行っていたのが花田清輝だった。それは二本共産党の公式コースからも、あるいは「近代文学派」などのリベラル知識人とも明らかに異なっている。彼は「現代史の時代区分」で、宮本百合子の長編三部作『道標』『春のある冬』『十二年』(作者の死亡により『道標』のみ執筆された)が、それぞれ二七年から三十年、三一年から三三年、三四年から四五年を背景とすることに触れ、三部作がなぜ、四五年で閉じられなければならなかったのか、という。花田によれば、この作品が二七年のロシア革命との十年後の対決から始まっている以上、四五年の日本の敗戦ではなく、四九年の中国革命によって終わるべきだったのだ。「世界史の動向を決定したロシア革命や中国革命に比較すれば、そもそも日本の敗戦など、とるにたりない一些事にすぎないではないか」(p78)。「二十世紀における歴史の流れ」を分節化するやりかたには世界大戦を区分点とするものと、革命を区分点とするふたつがあり、日本においては戦争による分節が一般化している。だがむしろ、二つの世界大戦ではなく、世界大戦を終わらせたふたつの革命(ロシア革命/中国革命)によって切りとることで、歴史の風景は大きく姿をかえるという。こうした発想は、花田が愛好した函数的、あるいは射影幾何学的な方法だといえる。つまり消失点の位置をかえることで、パースペクティヴ自体を変更してしまうのだ。*1「元来日本そのものが、大雑把にいって、近代以前は中国の──近代以降は欧米の函数的存在以外のなにものでもないのではなかろうか」(「日本人の感情表現」『もうひとつの修羅』p66)*2だがこのような観点が、戦争の記憶を糧として、日本という主体を立ち上げようとしていた同時代の風潮から受け入れられるわけもなかった。「現代史の時代区分」は、一九六〇年の八月、安保反対運動の余燼のさめやらぬ時期に発表されている。そこで批判されているのが、安保を戦争体制の再来と見て結集した反対派であり、その敗戦を起点として戦後史を構想する観点であることは明白である。だが皮肉にも、六十年安保前後に花田の影響力は凋落する。全学連の支持を受けたのは、方法的な国内主義(「自立」)を掲げた吉本隆明などであった。

*1:近年すが秀実も、68年ではなく、敗戦をメルクマールと見る史観の批判をくり返している。

*2:「一九五〇をさかいに急激に日本が反動化してしまったのは、一九四九年に中国革命が実現したからであって、それまでの戦後の「あかるさ」よりも、日本のプロレタリアートにとっては、それからの「暗さ」のほうが、はるかに有利なのである。」(「三人のチャップリン」『映画的思考』p40)「暗さ」や「明るさ」「進歩」「反動」といったものも函数的な関係にすぎない。