純粋理性批判2

カントは「自由」の存在可能性を論じる部分で、「現象」には二種類の原因性(因果関係)が考えられなければならないという。ひとつは、感覚界において知覚される原因性であり、もうひとつは、それが「現象」である以上想定される「物自体」による原因である(「現象」はつねに何ものか=物自体によって触発されるほかないから)。第一の原因性というのは、私たちが通常考えている因果関係だといってよい。つまりは自然法則にしたがう事物間の連鎖であり、これは必然的なものである。あらゆる出来事には原因がある。ここでカントが述べていることを、映画をみるという体験を例にして説明することができるかもしれない。まず映画というものは、「見る」という体験を抜きにして存在しているわけではない。見る主観なしでは、フィルムという物質に焼き付けられたケミカルな痕跡の束に過ぎない。見るという行為に含まれている主観の構成作用が、それらを一本の映画へと形成する(同時にそれは意味や感情も伴う)。だがここで主観が自由に映画を形成するのだと考えては誤ることになるだろう。むしろそこには厳密な規則性(因果性)がある。たとえば誰が見てもショットの順序は同一であり、だから私たちはそれぞれ異なる感想を持ちながらも、同じ一本の映画を見たと確信することができる。むしろここで働いているのは、無人称的な形式的規則である(現代的な論者であれば、これを言語、たとえば象徴界と呼ぶかもしれない)。私たちの認知はフィルムの内部に限定されており、通常の因果関係とは、この映画内での事物の接続関係にほかならない。
では、可想的な(想定される)原因性とは何か。これはいわば映像(「現象」)の投射作用そのものにあたる。そしてカントでは、投射は主観自身の作用である。とすれば、〈私〉という主観は、現象に属すると同時に(映画は主観の作用であり、主観と分離できないことに注意)、現象には帰属しない、ゆえに知覚も意識もできないレベルを備えていることになる。興味深いのは、カントがこの「物自体」としての〈私〉が時間的条件に従わない、と述べている点だ。時間というのは、現象があらわれる際の条件に過ぎないからである。「かかる主観(物自体としての主観)にあっては、いかなる行為も生起したり消滅したりすることはないだろう。従ってまたこの主観は、一切の時間規定、一切の変化するものの法則──換言すれば、生起するところの一切のものはすべて(それより前の状態の)現象のうちにその原因を持つという法則に従うものではない」。すると、〈私〉は内部に、変化も行為もない非時間的な層(現実界?)をかかえていることになる(しかし、すべての変化と行為はそこから出てくる)。この〈私〉は、時間の内部での無限性(永世)は持たないが、時間の外部にあるという点では「不死」である。このように人間が必ず死に、必然的に限界づけられているにもかかわらず、私たちが内部に時間を受けつけない層をかかえていることが、人間の欲望を決定づけていると思う(「死の欲動」とはそのようなものだろう)。
ここでもう一度、映画を見るという比喩に立ち戻ってみよう。通常映画を見るというのは、その現象的な「因果関係」、つまりストーリーを読み取り、構造を把握し、ディテールの意味をとらえることだと考えられている。しかし、ある作品から強烈な感銘を受けるとき、実は内容はすべてぬけおちて、今、このシーン、このショットを見ているという純粋な「形式」だけが残されるのではないか。それはつまり「この〈私〉=映画」の不死性に触れているということではないか。だがそれは同時に、映画が映画ならなざるものに変貌すること、つまり現象界の亀裂(投射作用の失調)として体験できないようなものだろう。