民衆のいないナショナリズム

松永正義「日本における台湾研究の歴史的位置」(『ポスト〈東アジア〉』)より。

七〇年代は高度経済成長の時期で、それにともなって台湾の社会構造が大きく変化する。農業の占める割合が減って、サービス産業が増え、中産階級がふくらんでくる。そうすると、いったい本当の民衆とは何なのかという、日本と同じような問題が出てくるわけです。民衆的なものというのがそのままでは通用しなくなっていくというのは、古典的な意味での社会主義が通用しなくなっていくのと見合っていることなのでしょう。
七〇年代はそうではなかった。民族というとき、民衆的なものと結びついて初めて意味を持つのだと思うけれど、王拓や陳映真の七〇年代の議論には、はっきりそうした志向があったと思います。それは台湾だけではなく、例えば韓国の詩人・金芝河がいます。金芝河は最も民族的なものは最も民衆的なものである、と言うわけですね(『長い暗闇の彼方に』中央公論社)。僕なんかは、むしろそうした金芝河のテーゼを通して、陳映真や王拓の議論を理解していたわけです。これにナショナリズム社会主義の結合の典型である中国革命の中の文学の問題を加えてもいい。そこには確かに共通の軸があるように思われました。だから大陸・台湾・韓国の民主化の中での文学を、共通の枠組みで考えることができたのです。
ところがその民族的なものの基盤としての民衆というものが、経済成長のなかでの社会構造の変化によって、変容していく。つまり、ナショナリズムの基盤のところに民衆がいなくなってしまう。ナショナリズムの基盤そのものの変質、あるいは崩壊が起こったわけです。(略)八〇年代の台湾に即していえば、民族というのは、はっきり大陸に対抗する形での「台湾民族」という形になってしまう。そこでは民衆の基盤といったことは問題にならない。

同じことを、インタビュアーの丸川哲史氏は、「民衆のイメージが「選挙民」となったのが八〇年代だと思うのです」と絶妙に表現している。
これは、すっきりと分かりやすい議論だ。というのは、日本も戦後、ほぼ似たような社会変動を経験しているからだろう。日本において、「民族」と「民衆」の結合を夢想することができたのは、せいぜい六十年代半ばくらいまでだろうか。例えば谷川雁吉本隆明も、革命運動(とそこに内在するナショナリズム)と下層の民衆を重ねあわせようとしていた。だが社会の変化による民衆の解体は、彼らの戦略を無効化してしまう。吉本隆明など確信犯なのか、鈍感なのか、単なる消費社会のイデオローグになってしまう。ひるがえって、現在の日本のナショナリズムは無論のこと、中国の反日デモのようなものにも、基本的に共感することができないのは、それが対外的な危機意識、つまり横の軸だけを問題にしていて、国内の垂直の軸に関する意識が見られないからだ。それは明治の国権主義と自由民権運動ほどにちがう。