システムと多様性

松永正義氏の語録をもうひとつ。今度は「台湾から見た中国ナショナリズム」(『現代思想』2001.3)より。
松永氏は、まず中国の多元性を強調する。民族、言語(これは漢民族のなかでの言語の違いを含む)、文化、遺伝子レベルまで、中国社会はきわめて多様性が大きい。その上で、では何が統一性を形成しているのかというと、古典的文化構造と近代ナショナリズムであろうという。

古典的文化構造という言い方で、どんなことをイメージしているかというと、中国は経済的社会的にはかなり異なった地域の集合体で、それぞれの生活文化、諸伝統というものも異なっている。このレベルでは「中国」は無いといってもいいし、このレベルに共通する中国性(チャイニーズネス)は、朝鮮、日本や東南アジアまで広がっているといえる。ではどこに「中国」があるかというと、文化です。多様で多元的な地域の上に乗っている文化というものは、逆にかなり強固な一体性、普遍性を持っていて、たとえば三千年前の『論語』でも違和感なく読めてしまう。そういう文化というものは、漢字によって保証され、そしてその漢字を担う知識人が全国的なレベルで活動しているということがある。

この一節でなんといってもおもしろいのは、地域が多様であるからこそ、そこに強固でしかも拡張性のあるシステムが乗っかっているというところで、いわばマシンを選ばない強力なOSを持っているようなものだ。ここで多様性にだけ着目すれば、中国はいつ分裂してもおかしくない寄せ集め国家だということになるし、反対に形式だけを見れば、極端な中央集権ということになる。そして俗耳に入りやすい説明として、社会統合の危機を抱えているからこそ、強権によってかろうじて維持されているのだ、という説明が出てくる。だが実際には、このふたつのレベルの往還のダイナミズムを見なければならないのだと思う。このシステムというのは単純な抑圧する権力ではないし、むしろ一般に強権的だと思われている中国こそ、フーコー的なマイナーポリティックスの分析が必要な場所のような気さえする。この漢字文化圏というシステムは、漢民族だけのものでもなく、地域的にはっきり限定もできないだろう。もともとそれは、国民国家のためのものではない。中台問題にしたところで、それをはっきり二つの国家(社会)とも、あるいはひとつの中国とも、実のところ両岸ともに割り切れていないところに困難があるのではないか。割り切ったようにいっているのは振りだけだ。
現在中国は「一国二制度」(大陸と香港)をとっているわけだが、歴史的にも中国的なシステムは、国民国家では許容できないような差異を内部に抱えてこざるを得なかったし、そのような能力を持っている気がする。
このあとの科挙という制度が、「知」であるとともに「権力」であり、同時に経済構造であったことを説明している部分もすごくおもしろいのだが、長くなりすぎるので割愛する。ただ、いうまでもなく現代中国を「古典文化構造」だけで説明できるわけも無くて、そこで「近代ナショナリズム」の問題も出てくる、というのがまた一段とむずかしいところなのだが。